根府川駅Vol.2

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先日の午後、特別な思い入れもなく東海道を下りました。
‘気の向いた駅で降りて東海道貨物線を走る3461レ(EF65牽引のワム編成)でも撮ろうかな。’
車中では、そんな事を考えていました。
どの駅も何度もかよった駅のせいか新鮮味が薄く腰が上がりません。
根府川駅から列車がまさに発車しようとした時、
急にこの駅で降りたいという衝動にかられ車中から飛び出しました。
まだ訪れた事のなかった佐奈田神社、ねじり畑に行ってみたくなったのです。
佐奈田神社までは、根府川駅から徒歩30分程(バス10分)、
3461レの撮影も捨てがたいものがありましたが、それを振り切って根府川駅を後にします。
石橋山の合戦のことは、このブログでも何度も触れています。
特に詳しく書いたのがこちら
今日は、佐奈田飴(のど飴)発祥の地、佐奈田霊社に祭られた佐奈田与一の話を綴ろうと思います。

1180年8月23日、石橋山の谷を隔てて平家方と対峙した頼朝は、
諸将に向かって平家方の先陣になって来ると思われる俣野五郎に誰を立ち向かわすかを問います。
(頼朝も勝ち目のない先陣の戦に自分から「おまえ行け」とはいえなかったのでしょうかね~。)
すると岡崎義実(よしざね)*三浦義明の弟、三浦義継の末子が、
すかさず我が子である25歳の佐奈田与一義忠を推挙します。
そこで頼朝は、与一に先陣を命じました。
命を受けた与一は、郎党文三(与一2歳からの爺や)に後の事を任し出陣しようとしましたが、
文三は、幼い頃から苦楽を共にした殿を見捨てる事は出来ないと言い張ります。
佐奈田15騎に対して平家方の先陣は75騎ですから決死の戦です。
いざ出陣の折、立ち出でたる与一の華やかな装束を見た頼朝は、
敵方の目に付きやすいから着替えていけと言いますが、
与一は、「弓矢とる身の晴振舞いは、戦の場に勝るものありませんから」と答え
白葦毛の馬を曳き豪雨の夜の闇めがけ突進します。
名乗りを上げて突進する与一の声を聞いた平家方は、
75騎中73騎が佐奈田一人に組もうとして群がります。
与一は、これをかいくぐり岡部弥次郎の首を切った後、敵将、俣野五郎景尚と対面します。
お互いを名乗った後、組み付き、そろって落馬するも与一は、俣野の上に馬乗りになり
「義忠(佐奈田与一義忠)敵に組み付いたぞ!!落ち重なれ落ち重なれ!!」と叫びますが、
文三達は、みな多数の敵に押し阻まれ与一の声は届きません。
俣野も「景尚、佐奈田と組んだ、つづけ!」と叫びます。
駆けつけた平家方、長尾新五、暗くて与一が組している上の者か下の者かが分かりません。
長尾新五が鎧を触って確かめようとした時、与一は右足で新五を蹴り倒し
その隙に鎧返し(短刀の一種)で俣野の首を掻きます。
しかしどうしたことか、何度掻いても切れません。
刺しても刺しても通りません。
不思議に思って刀を見ると鞘にはまったまま刀は抜けていませんでした。
鞘尻を口にくわえて中身を抜こうとしますが、
辿り着くまでに斬った血糊が鞘の中で固まりついに刀は抜けませんでした。
その間に長尾新五の弟、新六も救援に駆けつけ与一を後ろから斬りつけます。
与一は、このような不運に見舞われ討ち死。
また、文三も稲毛重成の兵に囲まれ主人と死を共にしています。

さすがに頼朝も佐奈田与一、文三に申し訳なく思ったのか、
1190年正月15日、伊豆山権現に詣でる途中、石橋山の佐奈田与一、文三の墳墓を訪れ
哀傷の念に耐えず涙したといいます。
しかし、以後、二所詣の途中でこのような哀傷の念を抱くのは避けるべきだと
二所詣の順路は、箱根、三島に参拝し伊豆山を詣でるように改められたそうです。

佐奈田霊社は、のど(声)、せき、気管支炎、喘息に悩む人々を救う力があると言われています。
これは、佐奈田与一が頼朝挙兵の知らせを受けた時、
病み上がりでのどに痰が詰まって声が出ず味方を呼べなかったという説が由縁だそうです。