江ノ電 義経ゆかりの寺、満福寺

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鎌倉殿の13人の中で
源義経と対立した人物と言えば
梶原景時

その対立のいくつかを紹介すると
まずは平家物語に載っている
“逆櫓論争”

1185年、
景時が合流した義経軍は
摂津国から平氏の本営がある
屋島を攻めます。
その前に軍議が行われ、
景時は義経に対し
船を後ろへも
自由に漕ぎ進められるように
船首にも櫓を取り付ける
“逆櫓”を提案します。

その時に義経は、
兵が臆病風にふかれて退いてしまう
『最初から逃げることを
考えていては勝てない』と
嘲笑したことで二人は対立。

この言い争いの後、
義経は、暴風の中を
5艘150騎で出航し屋島を落とし
景時の本隊140余艘が到着した時には、
平家はすでに逃亡していました。

この屋島の戦い
義経とその側近によって景時は、
「六日の菖蒲(時機に遅れて役立たず)と
嘲笑されています。

さらに1185年3月の
壇ノ浦の戦いでは、
先陣を希望した景時に対し
義経は自らが先陣に立つと主張。
この時は、義経の郎党と景時親子が
斬り合い寸前になったようです。

そのように
気が合わず対立し続ける二人

景時は、
義経はやることなす事勝手すぎる」
義経は、追討の功を
自分一人のものとしている」などとの書状を
お目付け役として頼朝に送っています。

実際に義経は、
宮廷勢力のおだてに騙され
自らの手柄に自惚れていたのですが
義経は、
それをこのお寺で書かれた腰越状
景時や源範頼の讒言(ざんげん)による
誤解であることを主張しています。