雨天決行(JR貨物 平塚)

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雨の休日には、パソコンの前に座って、この鉄道・列車カテゴリーの記事を読んで廻ったり
神奈川・横浜のお役所のホームページを訪れてその土地の歴史や由来、史跡、文化財の事を
調べて過ごす時間が多い。最近の長雨で、生活は、まさにそのパターン。
今回、その中で目にとまったのが平塚市役所のホームページ。
読んでいるうちに、実際その場所に行って五官でその場所を感じ取りたいなという気持ちが強くなり
雨の平塚駅西口に降り立ちます。
まず訪れたのが、怪談「番町皿屋敷」で悲劇の主人公となったお菊の塚。
お菊は、平塚宿の役人、真壁源右衛門の娘で江戸の旗本、青山主膳に礼儀作法見習いの為、奉公した際、
お菊に想いを寄せていた主膳の家来が思い通りにならないのを恨んで家宝の皿を隠し
主人にお菊が紛失したと告げたのでお菊は、手討ちにされてしまいました。
源右衛門は、刑死人の例にならい墓を造らずここにセンダンの木を植えて墓標としました。
あの有名な平塚空襲から7年後、お菊の墓は、立野町の青雲寺にある真壁家の墓に移されました。
雨の中で上手に列車の写真を撮れるカメラも技術も持ち合わせていないので
今回は、線路端に立つ気はなかったのですが、やっぱり平塚まで来たら馬入川の鉄橋には立ち寄りたい。
そんな気持ちを抑えきれず当初予定と反対側の茅ヶ崎方面に足が向きます。
相模川(馬入川)では、機関車狙い。
と言うのも去年の5月にこのブログに載せたここでの‘電車’の写真以上のチャンスにも恵まれた
絵を撮る事は出来ないと思ったから。
とりあえず一本撮って(写真1枚目)、今度こそ当初の目的、要法寺へ。
ここには、平塚の名の由来となった平塚の塚があります。
桓武天皇の孫の高見王の娘、平真砂子が東国への旅の途中、857年にこの地で没しました。
ここで埋葬され塚が築かれたのが「平塚」の名の由来で昔は「たいら塚」と呼ばれていました。
(その塚の上がいつしか平になった為、「平塚」と呼ばれたという説もあるようです。)
せっかくここまで雨の中、歩いてきたのだから相模貨物駅にも立ち寄ってみたい。
貨物駅近くの誇線橋の下には、ここのコンテナや機関車を見学(?)する為のベンチがあって
この日は、雨で濡れて座る事も出来なかったけれど、いつかのんびりそこに座って
機関車や後ろに控える高麗山を見ながらお弁当でも食べたいな。(写真2枚目)
時計を見ると午後2時前。あのワム編成3461レが、まもなく平塚辺りを通る時刻。
さっきの馬入川の堤防でこのワム編成を撮りたい。
(このころには、歴史探索忘れて撮り鉄気分になってます。)
ここからあの堤防までは歩いて30分以上はかかるぞ。果たして間に合うか。
平塚駅を過ぎた踏切り近くで4073レ通過(写真3枚目)
これが来たって事は、もう間に合わないか?傘が邪魔だ。傘をたたんで走る走る。
すれ違う人の目が「何、あの人」「変なおじさん」と言っている。
前を走る自転車に乗った女性は、私が接近すると急にスピードをあげた。
力尽き諦めて真福寺のお墓の横にある踏切りで待機。
そこで撮ったのが4枚目の写真です。