湯河原Vol.2

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湯河原の駅前には、ここに館のあった土肥実平の夫婦像が立っています。
なぜ夫婦像なのか。その辺りを今回は、記してみたいと思います。
(相変わらず鉄道と全く関係ない歴史の記事ですいません。)

1180年8月17日、伊豆の蛭ヶ小島島流しになっていた源頼朝は、北条時政(政子の父)や土肥実平など
伊豆、西相模の武士達と平家打倒の旗揚げをし頼朝の監視役だった山木兼隆を攻めます。
一方、頼朝蜂起の報を受け平家方の大庭景親は、武蔵、相模の武士団に出陣を呼びかけます。
以仁親王の令旨のよって東国支配の権限を与えられたと主張する頼朝は、関東に進軍を開始。
8月23日、頼朝軍は、湯河原の土肥館を経て300騎で石橋山に陣を張ります。
対峙する平家方は3000騎。大庭景親は、頼朝の援軍である三浦義清を総師とする三浦勢が
酒匂川の増水で行く手を阻まれているうちにその夜、総攻撃を仕掛けます。
あの急斜面の木々が生い茂る山中、雨の降る暗闇での殺し合いは、壮絶だったでしょう。
8月24日、敗走する頼朝は、この地の道に詳しい土肥実平の導きで土肥館まで逃げ延びます。
しかし、ここにも大庭軍が攻め入ってくるのは、時間の問題。
そこで土肥実平・遠平父子は、湯河原の城山の北方にある洞窟(しとどの洞窟)に避難させました。
その時、実平の奥方は、農民の姿になり、‘きび餅’などを墓参りに見せかけ
追っ手の武士が山狩りをする中、岩屋まで運んでいたといいます。
その後、28日に頼朝は、実平が用意した漁船で真鶴から安房国へ脱出しています。
と言う事で、土肥実平だけでなく奥方の功がなければ日本の歴史は大きく変わっていたのです。

1枚目)小田原駅から湘南ライナーになる185系回送。
2枚目)昨日の小旅行の帰途に乗った列車です。
3枚目)土肥実平が建立した土肥氏菩提寺、城願寺山門です。
山門の奥に見れる木が樹齢800年の実平手植えのビャクシンの大樹(国指定天然記念物)です。