湘南モノレール(木曽塚)

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大船に木曽義仲の嫡男、義高の墓があると知り出掛けた。
まずは、鎌倉踏切に寄り‘東海’にお別れの儀式を済まします。
そこから途中、湘南モノレールの下をくぐる道を歩く。
今日の空は、真青。
まさしくモノレール日和。
結局、モノレールに捉まってしまい思いっきり寄り道。

さてさてモノレールに沿って大きく木曽塚と逆方向に歩いてしまったものだから
この後、思いもよらぬ迷走を繰り広げてしまいます。
ある程度、頭に地図が描けるものだから過信して地図は持たない。
これがいけなかった。
どうにか鎌倉街道に出てテクテク歩く。
お腹が空いた~。
そういえば、この街道沿いに家系のラーメン屋があった記憶。
お腹を満たさなければ、イライラして史跡巡りも辛いだけ。
いつまで歩いてもラーメン屋が見つからない。
どんどん歩いていくうちに本郷台に近付いて行く。
このままじゃ自宅に戻っちゃうよ~。
大好きな家系ラーメンは諦めてもと来た道を引き返し
お腹を空かしたまま木曽塚のある粟船山を登ります。

タイワンリスが遊ぶ山道を登っていくと小さな石祠と墓石があった。
これかな?と思ったら「姫宮の墓」という立て札がある。
これは、北条泰時北条時頼の祖父)の娘で三浦泰村の夫人の墓だった。
甥の時頼が泰村を謀殺した宝治の乱(1247年)にまつわる悲劇の女性だ。

さらに山を登っていくと土盛りの木曽塚に辿り着いた。
塚の横には小さな公園。
その下は、住宅街。
もっと近道があったみたい。
お腹が減ってもうヘロヘロ。
いつもの事だけど、どうもお墓の写真は撮るのが怖くて今回も写真はなし!!

1182年、木曽義仲は、平家打倒の軍を進発する時、
11歳の嫡男義高を鎌倉に送って頼朝に他意のないあかしとします。
頼朝は喜び、娘大姫(時に4~5歳)の伴侶として迎えます。
1184年、義仲は、平家を追って京に突入。
後白河法皇を押し込めて自ら征夷大将軍となってしまいます。
法王は密使を送って頼朝に義仲追討を命じました。
頼朝は苦慮したあげく、
12月、範頼、義経以下大軍を発して義仲を攻めます。
1185年1月20日、義仲は大津の粟津で敗死。
このことが鎌倉に伝わると身の危険を感じた義高は、
4月21日の夜中に鎌倉を脱出しました。
頼朝の命を受けた堀藤次親家は、義高を追って26日入間川原で討ち取ります。
その首は、鎌倉に送られ首実検の後、粟船(大船)の離れ山に葬られました。
そして今は、ここ粟船山に移されています。