相鉄本線(天王町)

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天王町は、江戸時代には、東海道四番目の宿場町「保土ヶ谷宿」の入り口とも言える場所でした。
東海道分間延絵図」によれば、国道16号線を越え天王町駅に至る駅前通りの途中(磯貝氷炭店辺り)に
江戸方見附がありました。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入り口に設置されているもので、
土盛りをした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています。
こうした構造から見附は、本来、簡易な防御施設として設置されたと同時に
宿場の範囲を示す役割ももっていました。
ここから上方(京都)側の上方見附までの2Km程の間は、宿内と呼ばれ
家屋敷が街道に沿って建ち並び大名行列が来ると宿役人が見附で出迎えました。
天王町商店街協同組合が編集・発行している「天王町かわら版」によると
あの生麦事件の時も、薩摩藩士がこの見附に詰めて追手が来ないかどうか見張ったそうです。
天王町の町名の由来は、横浜最古の庚申石塔・青面金剛のある橘樹神社牛頭天王社)*写真4枚目
にちなんで名づけられました。