上総広常(小湊鉄道)

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石橋山からの敗退後、頼朝再起の地、上総。
小湊鉄道の写真を載せるなら房総の鎌倉幕府創立の立役者達も記事にしなければ
このブログらしくないでしょう。(笑)

立役者のNo.1は、千葉常胤(ちばつねたね)となっていますが、
本当は、上総、下総二ヶ国に所領を持ち大勢力を有した上総広常(かずさひろつね)じゃないの?

で、今回は、この上総広常のお話。

真鶴から海を渡って一足先に到着していた北条時政、三浦義澄に迎えられた場所が、
安房の平北郡猟嶋(鋸南町竜島)。(ここ、この前、D51撮りがてら行ったっけ。)
実は、頼朝は、石橋山で負けた時は、ここに逃げてこようと決めていて、
挙兵前から房総の良文流平氏の豪族と親交のあった三浦氏や和田氏を通じて
上総広常や千葉常胤、安房の安西三郎景益と連絡を取り合っていました。
安房で頼朝と敵対したのは、長挟氏だけというから事前の根回しは、たいしたものです。(感服!!)

頼朝が、和田義盛を使者として広常に加勢を依頼した時、
広常は、まわりの状況を見てから決める態度をとって頼朝にヒンシュクをかってます。
早くから頼朝に味方すると表明していた千葉常胤とは、大違い。
でも、弱小常胤とは、立場が違うって思うんですけど・・・。

千葉常胤に遅れをとってはマズイと思った広常。
頼朝再挙兵の折には、上総の兵2万騎(常胤軍は、300騎)を引き連れて加勢に付くも
頼朝のもとに到着したのは、2日遅れで隅田川べり。
この時、頼朝は、この大軍を喜ぶではなく
遅参を咎めて目通りを許さなかったとも言われています。
しかし上総広常の頼朝軍への参加によって頼朝は、安房上陸から20日たらずで
事実上房総3国を支配下に置く事になったのです。
そして一大勢力を持つ上総広常が頼朝についたことが、
関東の豪族達が頼朝方につくきっかけになったともいえると思うのです。

この頃、頼朝は、上総広常を第二の父、千葉常胤を第二の母と思うと述べています。
しかし、鎌倉幕府の公式記録?「吾妻鏡」では、
広常の事は触れられず、千葉常胤を第二の父と思うに変わっています。
この挙兵の3年後、1183年12月、頼朝は、梶原景時に命じて
頼朝邸内で双六に興じる最中の広常を殺してるのですから
広常が第二の父じゃ都合悪いですよね。