江ノ電 神戸川河口附近

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腰越といえば、鎌倉時代に刑場があった場所として知られていますが、
その刑場は、特定の場所ではなかったようです。
 
1180年(治承4年)、源頼朝に敵対した大庭景親が処刑されたのが「固瀬河辺」と呼ばれる所。
日蓮の場合は「龍口之海辺」と記録されています。
また、元国使の杜世中や北条時行の処刑は「龍口」で行われたと記録されていて
これらの場所が同一なのか別なのかは、ネットとかで一生懸命調べてもはっきりしません。
 
私が思うに大庭景親が処刑された場所は、
「固瀬河辺」という文字からし
大庭景親の領地と鎌倉の領地を隔てていた境川の河口附近か
もしくは、この神戸川の河口附近のような気がします。
 
大庭景親が処刑された経緯を記事にしてみましょう。
 
1180年8月、石橋山の戦で大庭景親さんは、
頼朝軍を破りました。
頼朝は、必死に真鶴から舟で房総に逃れます。
 
大庭さんは、一安心。
藤沢の地で悠々自適の生活。
 
しかし、2ヶ月もしない間に頼朝は、
関東の豪族を味方につけて再起!!
 
大庭さん、大慌て。
 
こりゃいかんと僅かな兵を引き連れて
藤沢の大庭城を抜け出します。
 
平家につこうとひたすら西へ西へ
 
足柄峠を越えて鮎沢宿まで辿り着いた時、
前方に甲州の武田軍二万が来てしまいます。
 
万事休す、
足柄山中に逃げ込むも
大場さんを鎌倉から追っていた梶原景時に捕まって降伏。
 
そして頼朝が決めた処置は、
大庭は、許さん!!
斬首だ~!!
 
これが、記録に残る腰越での最初の刑の執行だと思う。
 
ところで、なんで刑場の場所に腰越が選ばれたのか
それは、次回の記事で・・・・・・・。