湘南モノレール(梶原景時)

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湘南モノレール・湘南深沢辺りの歴史散歩第2弾は、ここに居を構えていて
鎌倉幕府初期、頼朝の信頼厚く義経を死に追いやった事でも知られる梶原景時ゆかりの史跡巡りです。

まずは、1394年創建の等覚寺の茅葺きの薬医門をくぐり境内を散策
その後、鎌倉氏祖の権五郎景政を祀る御霊神社を訪ねます。
ここの御霊神社は、景政の孫でこの地を開拓して在地豪族となった梶原景長の創建です。
そしてこの梶原景長の子が景時。

1180年8月、頼朝は伊豆で挙兵します。
平清盛の命を受けた権五郎景政の曾孫にあたる藤沢(大庭城)の大庭景親は関東武士団を集結させ
頼朝攻略の兵を起こします。
景時も同族の大庭景親の呼びかけに従い私兵を率いて伊豆に向いました。
8月23日には、石橋山で対陣。この戦で頼朝は敗退し土肥実平の導きで湯河原の洞窟に隠れます。
景時は、この洞窟に頼朝達が隠れているのを知りながらここにはいないと言って
景親の軍を引き上げさせます。
この話は、以前、湯河原での電車の写真と共に記事にしています。
http://blogs.yahoo.co.jp/yawarakanakikai/36110900.html
なぜこの時、景時は、頼朝達を見逃したのか?
いろいろ調べてみると2つの説があります。
1)当時の関東武士は、弓馬の術には優れていたが、学問を志す人は少なかった。
そんな中、頼朝をかくまった土肥実平も学問が出来る人物で景時と気が合い親交が深かった。
2)当時、関東は京都の政権から植民地扱いされていて関東武士が京都の勤番に行くと
おごり高ぶる公卿たちからこき使われていた。
しかし、多くの関東武士は先見の目もなくただ命令に従って行動していた。
学問のある景時はもともとこんな世の中を変えそうな頼朝に賭けてみようかという気持ちがあった。

房総で再起して鎌倉入りした頼朝は、この恩義に感じて景時を重用するが、
実際は新しい世を作り出すのに当時、景時ほどの知識と才能をもった適任者がいなかったのでしょう。
木曽義仲や平家討伐戦にあたっては、景時は義経軍に軍監としてついています。
血気にはやりとかく独走する若い義経の手綱をとらせ補佐させようと頼朝は考えたのでしょう。
この時、景時と義経はしばしば衝突しています。
景時は、義経の行状について頼朝に幾度か文書を送り
戦後、義経が勝手に任官した時、頼朝は幕府の基礎を揺るがすことと考え怒り
景時の言がこれに追い打ちをかけてついに義経を死に追いやりました。

1199年1月13日に頼朝が死ぬとかねてより景時のことを面白く思っていなかった御家人
源氏政権を乗っ取ろうと考えていた北条時政の謀計により景時は追い詰められていきます。
10月13日、景時はここ梶原の地を引き上げ寒川町一の宮に籠もるが、
幕府が景時の所領没収と追討を決めた事を知り関東に見切りをつけ京都へそして西国に逃げました。
途中、駿河の興津の清見潟にさしかかった時、土豪の庵原、飯田らが襲い掛かり激戦し
景時・景季・景高・景茂ら一行33人は、清水市大内の霊山寺西方の山中(牛ガ谷)に逃げ込み
全員自害して果てました。