鎌倉という街は、
鎌倉時代に数多くの合戦の場になったせいか
独特の‘暗さ’を感じることがあります。
江ノ電沿線で
その‘暗さ=歴史(史実)’を
感じてしまうのが、
ここ和田塚。
和田一族の怨念が
今も漂っている気配を感じるのです。
和田合戦
比企の乱から十年後の1213年(建暦三年)、
鎌倉を舞台とする最初の大規模な合戦が起こります。
幕府草創以来の老臣和田義盛とその一族が、
北条氏打倒を目指して挙兵した「和田合戦」がそれ。
比企氏の乱の後、
比企氏の乱の後、
後妻牧の方の娘婿・平賀朝雅の将軍擁立問題で、
父・北条時政を伊豆に引退させ、
その後継者として、北条氏への権力集中を目論んでいた北条義時は、
頼朝死後における宿老会議の一員でもあった義盛が、
北条氏への対抗意識を示したのは、
1209年(承元三年)から二年以上にもわたる上総国司・所望事件。
義盛は日頃住んでいた伊北荘(上総介広常の故地)のある、
時政とその子義時・時房兄弟が、
それぞれ遠江守・相模守・武蔵守に任官していた事。
義盛としては、北条氏と同格になる為に
申請書の返却を幕府に求めます。
これに対して幕府の対応は、
将軍の計らいを蔑にするものだと云うのです。
二年待たせての、この対応、
義時および取り次ぎ役の大江広元ら
幕府側の強固な任官阻止の意志が感じられるではありませんか。
だから和田義盛は、
挙兵に際し、幕府・義時邸に続いて広元邸も襲撃対象にしました。
和田合戦の決定的な要因は、
頼家の遺児千寿を将軍に擁立して
北条氏を打倒する陰謀が発覚(泉親衡の乱)。
2月、義盛が上総国伊北荘に下っている最中に、
甥の胤長が逮捕されます。
3月8日、鎌倉へ戻った義盛は将軍に一族の赦免を嘆願。
義盛の多年の勲功に免じて子息の義直・義重は赦免され、
まずは義盛の面目は立ちました。
翌9日、義盛は和田一族98人を引き連れ、
御所南庭に列座して甥の胤長の赦免を嘆願します。
そこへ大江広元が現れ、
胤長は事件の張本人であるので許すことはできないとし、
和田一族の面前で縄で縛りあげた姿を引き立て、
預かり人の二階堂行村に下げ渡します。
これは義盛ら和田一族にとって大きな屈辱。
21日、6歳になる胤長の娘が悲しみのあまり病になり、
息を引きとってしまいます。
和田一族は胤長の処分を決めた執権北条義時を深く恨みました。
罪人となった胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになり、
25日、義盛は罪人の屋敷は
一族の者に下げ渡されるのが慣例であると将軍に乞い、
これは許され、義盛は久野谷彌次郎を代官として屋敷に置きます。
ところが、4月2日になり、
とつぜん義時は旧胤長屋敷を泉親衡の乱平定に功績のあった
義盛の代官を追い出してしまったのです。
重ね重ねの義時の挑発に義盛は挙兵を決断。
この挙兵に将軍実朝の近臣だった孫の朝盛は反対し、
これを知った義盛は密事が漏れると激怒し、
義直に追わせて連れ戻させます。
これらの騒ぎで、義盛挙兵の流言飛語が飛び交い、鎌倉は騒然。
27日、事態を憂慮した実朝は宮内兵衛尉公氏を義盛の屋敷へ送り、
真意を問いたださせました。
義盛は「上(実朝)に恨みはござらん。
ただ相州(義時)の傍若無人の仔細を問いたださんがために
用意している」と答えます。
義村は起請文まで書いています。
義盛の館に軍兵が集結しているとの通報が、
義盛の従兄弟で本家にあたる三浦義村が、義盛出軍を知らせます。
義村は、当初、同族として義盛に同心する由、
起請文まで書いていたが、寝返ったのです。
この裏切りの影響は大きく、大勢は決してしまいます。
こうして義時・広元は、合戦を決定づける手を打ちました。
実朝の「御判」を載せた、指令書を、
戦況をうかがっていた各武士団、御家人らに発したのです。
すでに将軍御所を襲撃した時点で、
和田氏の挙兵は幕府に対する謀反と位置づけられてしまいます。
片瀬川付近に晒された義盛以下和田方武士の首は
片瀬川付近に晒された義盛以下和田方武士の首は
二百三十四を数えたと言います。
和田塚辺りでは、新道工事や建物の建設時に
多くの白骨が出たというのは、有名なニュースですね。
参考文献;鎌倉の石塔・周辺の風景
和田合戦ーWikipedia