今日は、地元、本郷台の歴史の紹介記事になります。
毎度の事ですが、鉄道、列車カテゴリーにそぐわない記事で御免なさい。
今回は、村社・春日神社を中心に話を進めてみようと思います。
ちょっと長くなりますが、興味ないなんて言わずお付き合い下されば調べ回ったかいもあります。
よろしくお願いします。
毎度の事ですが、鉄道、列車カテゴリーにそぐわない記事で御免なさい。
今回は、村社・春日神社を中心に話を進めてみようと思います。
ちょっと長くなりますが、興味ないなんて言わずお付き合い下されば調べ回ったかいもあります。
よろしくお願いします。
写真の春日神社は、昔は、本郷六村の総鎮守でした。
末社には、神明(桂・公田)、白山(上郷)、稲荷(中野)の本郷各村の村社があります。
春日神社の総社である奈良の春日大社は、奈良時代初期の創建で、藤原氏の氏神と祖先神が祭られていて
平安時代に藤原氏の勢力拡大と共に全国に流布され、
藤原一族の地域神として村社、鎮守、総鎮守になっています。
末社には、神明(桂・公田)、白山(上郷)、稲荷(中野)の本郷各村の村社があります。
春日神社の総社である奈良の春日大社は、奈良時代初期の創建で、藤原氏の氏神と祖先神が祭られていて
平安時代に藤原氏の勢力拡大と共に全国に流布され、
藤原一族の地域神として村社、鎮守、総鎮守になっています。
本郷の地は、平安時代、山ノ内荘本郷と言われました。
山ノ内荘は、柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内首藤(やまのうちすどう)の荘園です。
この春日神社は、山内首藤によって平安時代に創建されたものと考えられています。
山内首藤は、荘園領主であると同時に在地武士団でもあり源義家(よしいえ)以来
源氏と深く関係していました。
山内俊通(やまのうちとしみち)とその子、俊綱(としつな)は、保元の乱(1156年)、
平治の乱(1159年)の折、源義朝につかえ、戦死しています。
源頼朝が石橋山で挙兵した折は、俊通の次男、経俊(つねとし)が頭領で、
当然、頼朝を援けると思われたのに頼朝側弱小とみて平家に味方します。
この為、後に鎌倉に入府した頼朝は、経通を捕らえ、
山ノ内荘を土肥実平(とひさねひら)に預け、後に和田義盛(わだよしもり)に与えます。
山ノ内荘は、柏尾川流域を経営した秀郷流藤原氏の名族、山内首藤(やまのうちすどう)の荘園です。
この春日神社は、山内首藤によって平安時代に創建されたものと考えられています。
山内首藤は、荘園領主であると同時に在地武士団でもあり源義家(よしいえ)以来
源氏と深く関係していました。
山内俊通(やまのうちとしみち)とその子、俊綱(としつな)は、保元の乱(1156年)、
平治の乱(1159年)の折、源義朝につかえ、戦死しています。
源頼朝が石橋山で挙兵した折は、俊通の次男、経俊(つねとし)が頭領で、
当然、頼朝を援けると思われたのに頼朝側弱小とみて平家に味方します。
この為、後に鎌倉に入府した頼朝は、経通を捕らえ、
山ノ内荘を土肥実平(とひさねひら)に預け、後に和田義盛(わだよしもり)に与えます。
崇敬の中心、山内首藤を失った春日神社は、次第に衰亡していきますが、
1565年、小田原北条氏の本郷公田の地頭職、宇部左京亮(うべさきょうのすけ)の子息、
宇部松菊丸が周辺に威勢を振るう政策の一つとして再建しています。
1565年、小田原北条氏の本郷公田の地頭職、宇部左京亮(うべさきょうのすけ)の子息、
宇部松菊丸が周辺に威勢を振るう政策の一つとして再建しています。