江ノ電(極楽寺)

極楽寺といえば、今では、本堂と大師堂と収蔵庫、客殿と庫裡だけのささやかなお寺ですよね。
でもこの極楽寺鎌倉時代には、忍性によってとてつもない大寺に造り上げられていたんです。
開創当時は、中央入り口に仁王門、参道左右に鐘楼、勧学院、参道正面に四王門、
そして中金堂と左右に金堂との三金堂が並び、その後ろに講堂、右に方丈で左に華厳院、
講堂の後ろに奥の院があったそうです。
この境内、この谷戸の全部と前面の霊山全部を含む広大なもので、
この中に七堂伽藍のほか、塔頭四十九院が建ち並んでいたということです。
当時の金堂は、今の本堂より後ろにあって今の稲村ガ崎小学校の校庭辺りに講堂が、
その後方の運動場辺りに奥の院があったと言うのですからさすが、北条の肝いりですね。

 

今日は、このお寺の由来に加え極楽寺が大打撃を受けた新田義貞の鎌倉攻め極楽寺切り通しのお話を
ちょっと真面目に語りましょう。
興味のない方は、すでにこの前文の途中で写真だけ見て閉じちゃっているだろうけど、
ここまでお付き合い下さったあなた、せっかくですから是非、これからの記事を
江ノ電撮影、乗り鉄の楽しみ方の一つに加えてくださいね。

 

このお寺、鎌倉では唯一の真言律宗のお寺。
建立したのは、北条義時の三男の重時さん。
この人、三十歳の時、六波羅探題となって京都に住むこと20年。
50歳の時、鎌倉に帰ってきてこの地に別邸を構えて執権時頼の連署を勤めます。
めちゃくちゃお偉い方だったんですね。
59歳になった1256年、政務に疲れちゃったのか、官を辞して出家しちゃいます。
名を観覚と号して、自分の邸に極楽浄土の世界を現そうとして
浄土庭園をもつ極楽寺の造営をはじめました。これが、1259年のこと。
でも重時さん、工事半ばの1261年11月3日、64歳でお亡くなりになります。
それでも、重時さんの未亡人や子の長時(6代執権)や業時が、父の志をついでお寺の造営を続けます。

 

その頃、戒律を厳守する律宗を開いた西大寺叡尊が鎌倉に来ていて半年程滞在します。
叡尊が奈良に帰った後も高弟の忍性は、扇谷の奥の清涼寺釈迦堂を拠点に
律宗の布教と実践活動(病者救済活動)をしていました。
この忍性にいたく帰依したのが、執権長時とその母(重時の未亡人)。
さっそく1267年、建設途中の極楽寺に忍性を迎えてめでたく開山です。

 

1276年、大きな本堂が完成。
ここに釈迦清涼仏を安置します。
律宗の本尊釈迦は、嵯峨清涼寺の像で釈迦生前の姿を写したものとされています。)

 

忍性は、広大な境内で慈善救済の大事業を営みます。
薬院、非田院、療病院などの建物が並び、日夜多数の病人を収容して
貧しい人には、無料で加療・施薬をします。
さらにここだけでは間に合わなくて1287年には、桑が谷(光則寺北側の谷戸)にも療病所を造り
坂ノ下には馬の病舎も造りました。
また、鎌倉における困窮者に対し施米を提供し
極楽寺への出入りの便をはかって、切り通しを造り極楽寺坂の道を造成したり
各地に189箇所の橋を架け修築した道は71箇所もあったといいます。
この様な慈善事業をしてきた忍性、庶民からも生き仏と仰がれるようになったのですが、
これも北条の後ろ盾があったからなのかなァ。

 

これからクライマックスの新田義貞の鎌倉攻め極楽寺編を書いていこうと思っていたのだけど
御免なさい。思っていたより極楽寺の由来の記事が長くなっちゃって、眠くて頭がまわりませ~ん。
よって、新田義貞鎌倉攻めのお話は、今後の江ノ電極楽寺辺りで撮影した写真の為にとっておきますね。

 

長い事、鉄道に関係のない記事にお付き合いいただき有り難うございました。