江ノ電300形 極楽寺

極楽寺といえば、
今では、本堂と大師堂と収蔵庫、
客殿と庫裡だけのささやかなお寺。

でもこの極楽寺
鎌倉時代には、忍性によって
とてつもない
大寺に造り上げられていたんです。

開創当時は、
中央入り口に仁王門、
参道左右に鐘楼、勧学院
参道正面に四王門、
そして中金堂と
左右に金堂との三金堂が並び
その後ろに講堂、
右に方丈で左に華厳院、
講堂の後ろに
奥の院があったそうです。

この境内、
この谷戸の全部と
前面の霊山全部を含む広大なもので、
この中に七堂伽藍のほか、
塔頭四十九院
建ち並んでいたということです。

当時の金堂は
今の本堂より後ろにあって
今の稲村ガ崎小学校の
校庭辺りに講堂が、
その後方の運動場辺りに
奥の院があったと言うのですから
さすが、北条の肝いりですね。
 
このお寺、
鎌倉では唯一の真言律宗のお寺。
建立したのは、
北条義時の三男の重時。

この人、三十歳の時、
六波羅探題となって
京都に住むこと20年。
50歳の時、鎌倉に帰ってきて
この地に別邸を構えて
執権時頼の連署を勤めます。

59歳になった1256年、
政務に疲れちゃったのか、
官を辞して出家。
名を観覚と号して、
自分の邸に
極楽浄土の世界を現そうとして
浄土庭園をもつ
極楽寺の造営を始めました。
これが、1259年のこと。
でも重時さん、
工事半ばの1261年11月3日、
64歳でお亡くなりになります。

それでも、
重時さんの未亡人や
子の長時(6代執権)や業時が、
父の志をついで
お寺の造営を続けます。

 
その頃、
戒律を厳守する
律宗を開いた西大寺叡尊
鎌倉に来ていて半年程滞在します。

叡尊が奈良に帰った後も
高弟の忍性は、
扇谷の奥の清涼寺釈迦堂を拠点に
律宗の布教と
実践活動(病者救済活動)を
していました。

この忍性にいたく帰依したのが、
執権長時とその母
(重時の未亡人)。

さっそく1267年、
建設途中の極楽寺
忍性を迎えてめでたく開山です。

1276年、大きな本堂が完成。
ここに釈迦清涼仏を安置します。
律宗の本尊釈迦は、
嵯峨清涼寺の像で
釈迦生前の姿を
写したものとされています。)

忍性は、
広大な境内で
慈善救済の大事業を営みます。

薬院、非田院、
療病院などの建物が並び、
日夜多数の病人を収容して
貧しい人には、
無料で加療・施薬をします。

さらにここだけでは間に合わなくて
1287年には、
桑が谷(光則寺北側の谷戸)にも
療病所を造り
坂ノ下には馬の病舎も造りました。

また、鎌倉における困窮者に対し
施米を提供し
極楽寺への出入りの便をはかって、
切り通しを造り
極楽寺坂の道を造成したり
各地に189箇所の橋を架け
修築した道は
71箇所もあったといいます。

この様な慈善事業をしてきた忍性、
庶民からも生き仏と
仰がれるようになったのですが、
これも北条の後ろ盾が
あったからなのかなァ。