大船駅と大船軒

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東海道線は、1887年7月に国府津まで延びましたが、
その時、鎌倉郡大船村5番地に大船信号所が誕生しました。
1889年には、軍事上の理由から一年半の突貫工事で横須賀線が開通。
この信号所は、大船駅に昇格しています。
横須賀線開通の翌月、7月1日には、新橋~神戸間の東海道線が全通していますが、
この時の急行停車駅は、98駅中、横浜、大船、静岡、名古屋、京都の5駅しかありませんでした。
田園の中にポツンと突如出来た駅が、これほどの扱いを受けたのは、
軍港・横須賀への陸路の要衝だったからです。

横須賀線の開通と共に東京で呉服屋の丁稚奉公をしていた富岡周蔵という人物が駅前に旅館を営みます。
その後、周蔵は、駅構内での弁当販売を思い立ち構内での販売許可を申請します。
その時の販売許可願い書に書かれた販売品目は、弁当の他にお茶、ラムネ、鮨、卵、梨、りんご
それから暑い車中で使用する扇子やうちわなどがありました。
当時の駅弁屋さんて大抵、駅前旅館の業務拡大から始まっていますよね。

大船軒は、「売り子は、16歳以上で3人まで」「指定の印半天を着用」
「新規販売品は、見本を駅長に提出」など10項目の条件付きで1898年営業を開始します。
当時の周蔵の妻が薩摩藩士の娘であった縁で、周蔵は明治政府の要人で首相も務めた
黒田清隆との親交がありました。
ある日、黒田は外遊の折に食べたサンドイッチの話をして駅で売ったらどうかと薦めます。
周蔵は、この話に興味を持ちさっそく製造に取り掛かりました。
1899年ここに日本で初めてとなる駅弁サンドイッチが誕生します。
販売を始めると珍しさもあってたちまち品切れ。
周蔵は、輸入のハムに頼っていては、生産が間に合わないことやコストが掛かる事から
ハムの自家製造を考えていました。
折りしもすぐ近くの戸塚で英国人、ウイリアム・カーチスがハムの製造をしていて
ハムの製造技術を日本人が受け継げる時がきていました。
周蔵は、その技術を習いさっそく工場の裏手に冷蔵庫代わりの洞窟を掘ってハムの自家製造を始めます。
この洞窟は、今でも大船軒本社近くの崖にあります。(入り口は、コンクリートで塞がれていました。)

大船軒といえば、サンドイッチの成功で拡大成長していきましたが、
日本中の駅でサンドイッチが売られるようになるとその特色を失ってしまいます。
ここで目をつけたのが、当時、江の島近海で湧くように捕れた鯵を使った「押し寿司」
関東風に味付けした小鯵を関西風に押して仕上げる「鯵の押し寿司」は1913年4月発売開始、
サンドイッチに増して大船軒の看板弁当となって今に至っており現在、一日に4000食を製造しています。

大船軒は、先日、9月9日に大船駅構内のDila大船に新店舗を開店しました。
構内の決まった場所で立って販売していた「鯵の押し寿司」、誰も気にとめない様子でしたが、
店を構えてからは、立ち止まって見ていく人が多くいました。
そして、今,「Dila大船 開業記念弁当」を期間限定・数量限定で販売しています。
お味の方は、ちょっと私には、味付けが濃いように思えました。