2年程前から歴史のある古いお寺や神社又は史跡などを巡り
その辺りで鉄道写真も撮り歩くというのが私のライフワーク。
昨日、お気に入りの笠間大橋から貨物列車1074レを撮影後、
大船の地名の由来となった常楽寺を訪ねました。
大船の辺りは、ず~と昔、入江になっていてここから粟を積んだ舟が出入りしていました。
それで、この辺りを粟船邑(邑=おおきな村・里)と呼んでいました。
ここに創建された常楽寺、山号を粟船山といい大船の地名は、
この常楽寺を指す粟船が訛って「おおふな」になったそうです。
その辺りで鉄道写真も撮り歩くというのが私のライフワーク。
昨日、お気に入りの笠間大橋から貨物列車1074レを撮影後、
大船の地名の由来となった常楽寺を訪ねました。
大船の辺りは、ず~と昔、入江になっていてここから粟を積んだ舟が出入りしていました。
それで、この辺りを粟船邑(邑=おおきな村・里)と呼んでいました。
ここに創建された常楽寺、山号を粟船山といい大船の地名は、
この常楽寺を指す粟船が訛って「おおふな」になったそうです。
鎌倉時代に木曽義仲の嫡子、義高の首塚があったという離れ山富士見地蔵堂に寄り道しながら
秋空の下、テクテクと大船駅から20分程歩いた所にところに常楽寺はありました。
両脇に比較的新しい民家が並ぶ参道を行くと粟船山の扁額があるわら屋根の素適な山門に行き着きます。
山門の脇をくぐり敷石を進むと大きな銀杏があります。
中心は、枯れて空洞になっていましたが、周りに若木が生え育ち黄色く色付くのが楽しみです。
この銀杏、開基、北条泰時のお手植えだそうです。
その奥に銅板葺きの立派な仏殿があります。
中が見れました。
阿弥陀三尊来迎仏が安置され天井を見上げると立派な龍の絵が描かれています。
左に並ぶわら葺き屋根の建物は、文殊堂。
日本七文殊の第三という鎌倉時代末の作の文殊菩薩を祀っています。
またこのお寺には、時頼が、祖父泰時の追福の為に1248年に造らせた重文の梵鐘がありますが
今は、鎌倉国宝館に出陳中でした。
秋空の下、テクテクと大船駅から20分程歩いた所にところに常楽寺はありました。
両脇に比較的新しい民家が並ぶ参道を行くと粟船山の扁額があるわら屋根の素適な山門に行き着きます。
山門の脇をくぐり敷石を進むと大きな銀杏があります。
中心は、枯れて空洞になっていましたが、周りに若木が生え育ち黄色く色付くのが楽しみです。
この銀杏、開基、北条泰時のお手植えだそうです。
その奥に銅板葺きの立派な仏殿があります。
中が見れました。
阿弥陀三尊来迎仏が安置され天井を見上げると立派な龍の絵が描かれています。
左に並ぶわら葺き屋根の建物は、文殊堂。
日本七文殊の第三という鎌倉時代末の作の文殊菩薩を祀っています。
またこのお寺には、時頼が、祖父泰時の追福の為に1248年に造らせた重文の梵鐘がありますが
今は、鎌倉国宝館に出陳中でした。
このお寺は、1237年頃、北条泰時が夫人の母の供養の為に建てた粟船御堂に始まります。
1242年、6月15日に泰時は、60歳で亡くなりますが、遺骸はこの御堂に葬られ
法名をとって常楽寺と称されました。
泰時の墓は、仏殿の裏に苔むしてありました。
また、北条時頼が招いた中国僧・道隆が建長寺の造営中七年間ここに滞在し
執権時頼は、新仏教禅の教えを受けに通っていたそうです。
1242年、6月15日に泰時は、60歳で亡くなりますが、遺骸はこの御堂に葬られ
法名をとって常楽寺と称されました。
泰時の墓は、仏殿の裏に苔むしてありました。
また、北条時頼が招いた中国僧・道隆が建長寺の造営中七年間ここに滞在し
執権時頼は、新仏教禅の教えを受けに通っていたそうです。