横浜市栄区 御霊神社辺りで

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

祟りを恐れて、合戦で倒した敵の霊を祭り、祭神とするのが御霊信仰といわれる風習でした。
平安末期あたりから敵ではなく名のある勇猛な武士を祭るようになります。
鎌倉時代の初期、この写真の横浜市栄区長尾台、笠間、田谷、金井あたりは、
後三年の役(1083年~1087年)で活躍した武将、鎌倉権五郎景政の子孫の梶原氏が治めていました。
梶原氏は、鎌倉権五郎景政を藤沢の村岡御霊神社に祭りましたが、支配地拡大に伴い
ここ長尾台や田谷など13の場所に分霊して神社を建立しています。
次にこの辺りを治めたのが、梶原氏と同じく鎌倉権五郎景政の子孫、長尾氏です。
鎌倉権五郎景政の曾孫にあたる長尾定景は、三浦義澄に預けられ三浦氏に仕えました。
三浦義村の命によって公暁を闇討ちしたのは、定景です。
定景の子、景茂は、宝治の乱(1247年)で三浦泰村に味方したので、
北条時頼に敗れて、西御門の法華堂で自刃しています。
その時、北条軍は、長尾の館を攻め一族は、四散しました。
やがて、室町時代のはじめ、長尾氏は管領、山の内上杉氏の執事となり上野国で活躍します。
その後、越後に走り、長尾景虎は上杉氏の名跡をついで上杉謙信になりました。

1~3枚目)栄区笠間4丁目 タツメカトロニクス辺り
4枚目)長尾台御霊神社