初夏の風に誘われて(真岡鐵道 その5 ~八木岡城址~)

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鉄道写真でも風景写真でも何かしらその土地を象徴するものをちょこっとでも入れたくなるもの
それが後々、「あ~ここはこんな場所だったな~」という思い出になると思います。
 
ここ八木岡でSLと共に写し込みたいと思ったのは、
石仏を祭る木と八木岡のお城があった小山
 
それを同時に写し込めるのがこの構図でした。
 
ここでのSL撮影でメインとなる‘絵’を撮影直後、
ズームレンズを回し
素早く構図を変えて
その木と八木岡城の小山に挟まれた
列車の写真を撮ってみました。
 
 
SL撮影だけでなくこの土地の歴史を知って
予備知識をもって撮影行自体をを楽しみたいという人のために
八木岡城と八木岡氏のことを簡単に書いてみましょう。
 
八木岡城は永仁年間(1293~99)に
芳賀高俊の次男高房によって築かれたというから鎌倉時代の築城ですね。
高房は土地の名を苗字として八木岡氏の祖となります。
高房には子がなかったため、常陸小栗城の小栗重宗の次男高政を養子として迎え入れています。

 八木岡氏は本家の芳賀氏とともに宇都宮氏に仕え、
南北朝時代には北朝方として戦っています。
暦応2年(1339)に南朝の春日顕時は常陸で軍勢を整えて下野へ攻め込んでいますが、
この時の戦いで八木岡城は落城してしまいます。
なんでも八木岡一族は宇都宮氏とともに西日本を転戦していたため、
城内には防戦できるほどの軍勢が残っていなかったとか。
つまり老人と女性や子供中心で兵は、ごく僅かだったのでしょう。
 
南北朝の争乱が終わり、八木岡氏は八木岡城へと戻ります。
 
 
結城水谷宇都宮氏の対立が深まり
天文十四(1545)年十月に、宇都宮領への侵攻を図るため久下田城を築いた水谷正村に対し
主家である宇都宮家から八木岡貞家は、再三、久下田への進撃を即されます。
 
そこで主家である宇都宮家に援軍を要請するも、
恐るべき謀将水谷正村の力を甘く見ていた宇都宮家は、救援には消極的。

翌年の天文十五(1546)年九月、水谷正村が、父勝吉の十七回忌を行うという報告をききます。
八木岡貞家は、これはチャンスと考えました。
「法要中は、武装も解除しているだろう。緊張感もないはず。
久下田城を攻めるなら今でしょ!!」
 
そして、その法要の日、八木岡貞家は二百騎を率いて水谷勢の虚を突きます。
 
しかし、この法要は正村の巧妙な罠だったんです。
八木岡氏の出撃に対して、伏兵をおき、
自らは本堂から馬に乗り、真一文字に八木岡勢に突進。
八木岡勢は一瞬ひるむも態勢を立て直し水谷勢を押しまくった。
そこに正村の伏兵が背後から襲いかかり、
八木岡城に向かって敗走していた八木岡貞家は討死、
すぐさま八木岡城も陥落してしまいます。
 
こうして八木岡城は廃城となったそうです。