江ノ電(由比ガ浜の悲劇)

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由比ガ浜
鎌倉時代には、武士達の流鏑馬、笠懸などの武技を競う場所でした。
しかしこの浜は、無残な戦の場となったり悲劇の舞台ともなった所。
今、我が家のクリスマス会を終えかなり酔っ払っているので頭が回りません、
そんな訳で今回は、そのいくつかをさらっとまるで歴史教科書のように表面的に記述しましょう。

酒匂川の増水で足止めされて三浦勢が石橋山に辿り着けなかったのは、有名な話ですが、
ここ由比ガ浜での戦局が違っていたら三浦勢も石橋山の戦に加わって武功をたてていたことでしょう。
頼朝旗揚げの時、その応援に出向いた三浦義澄らは、
その時は、平氏方についた畠山重忠とこの浜でまみえます。
そして、その戦で三浦方の多々良義春が討死してしまいます。
三浦勢は、体制立て直しの為、衣笠城に一旦引き上げます。
これが、酒匂川の増水という事態を招く時間を与えてしまいました。

1186年3月、義経の愛妾静は、捕らえられて鎌倉に送られます。
その7月、静は男の子を出産。
しかし幕府は、この赤ん坊を静から奪って由比ガ浜の塩水につけて殺します。

1206年6月の夜、畠山重保がこの浜で数人の覆面の者達にだまし討ちにされたのは、
この記事で紹介しています。

1213年5月2日からの和田合戦。
こちらは、この時の記事で紹介しました。

そして、鎌倉最後の日。
稲村ガ崎をまわって前浜(由比ガ浜)に突入した新田軍は、
北条軍とこの浜で死闘を演じ、おびただしい数の両軍の死者をだします。

                            写真は、由比ガ浜3丁目です。