江ノ電・新田義貞鎌倉進攻

江ノ電沿線歴史シリーズもいよいよクライマックス(?)
今日は、新田義貞軍の極楽寺・稲村ガ崎での決戦のお話です。
それでは、太平記の「新田義貞鎌倉中に攻め入る事」の条から抜粋して話を進めていきましょう。

 

義貞は、新田軍を三手に分けて鎌倉侵入を企てます。
第一の軍勢は、大館宗氏を左将軍、江田行義を右将軍とした総勢十万余騎。
これを極楽寺切通しに向かわせます。
第二の軍勢は、堀口貞光を上将軍、大島義政を副将軍とした十万余騎。
こちらは、巨福呂坂(こぶくろざか)へ向かわせます。
そして、第三の軍勢は、新田義貞とその弟の脇屋義介が担当しその数、総勢五十万七千余騎。
仮粧坂(けはいざか)から攻め寄ります。

 

一方の北条軍は、相模高成、城景氏、丹波時盛を各総大将として新田軍の進攻に備えます。
極楽寺切通しを守ったのは、大仏貞直を大将とした五万余騎。
仮粧坂を守ったのは、金沢将監を就けた三万余騎。
そして、州崎方面には、赤橋守時を大将とする五万余騎が配置につきます。

 

5月19日、新田軍第一部隊の左将軍大館宗氏が、大仏貞直の率いる本間左衛門に討たれてしまいます。
これにより大館部隊は、腰越まで退却。
知らせを受けた新田義貞、急遽二万余騎を引き連れて腰越附近で大館部隊の残兵を拾いながら
稲村ガ崎の手前、正福寺に辿り着きます。

 

険しい山の上から極楽寺切通しを見れば、
そこには北条軍が、木戸を構えて盾を並べ強固な陣を構えています。

 

(ちなみに、当時の極楽寺切通しは、今より勾配がきつくて、ちょうど成就院の山門の位置まで
切通しがあったそうです。)

 

海側を見れば、海岸の砂浜の幅が狭く、その上、北条軍は、波打ち際まで逆茂木(さかもぎ)をめぐらし
沖には多数の船を浮かべて海岸つたいに進攻しようとする新田軍に矢を射掛けようと待ち構えています。

 

海沿いからの進攻を決断した義貞。
稲村ガ崎にて馬を降り、甲を脱いで海上の方を伏せ拝み竜神に向かって祈ります。
「仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、臣が忠義に鑑みて汐を万里の外に退け・・・」
そして黄金の太刀を抜き取って海中に投げるとその夜、汐が沖のほうまで退き
二万余騎一気に駆け抜け霊山の岬を廻って前浜に突入しました。

 

写真は、まさに新田軍と北条軍が激戦を交えた一帯です。
思いっきり逆光で、ノイズだらけの写真だけどこの古戦場の雰囲気を御覧下さいね。