桜の時期には、車中から見上げて
「いいお花見場所だなぁ~」と思ったものです。
今は、幸ヶ谷公園となっているこの山、
権現山と言われています。
この権現山、
列車の中から何気なく見ている人も多いかも知れませんが、
歴史好きには、馴染みのある山です。
永正7年(1510)6月の長森原の合戦で
念願の関東進出を果たすべく、侵攻を開始します。
まず扇谷上杉朝良の家臣・上田政盛を寝返らせ、
修築したばかりの権現山城に据えました。
しかし、この早雲の動きに危機を感じた朝良が7月11日より権現山城を攻撃。
この地は扇谷上杉氏にとっても要衝のひとつであり、
ここに穴をあけられるということは勢力圏が分断され、
それまで扇谷上杉氏と山内上杉氏は反目しあっていましたが、
共通の敵である早雲と戦うために結託し、
憲房は朝良を支援するため
成田親泰・藤田虎寿丸・大石顕重・長尾景長らの軍勢を
自らは住吉の要害を拠点として後詰に出陣。
しかし数に勝っていた(2万と言われている)上杉連合軍は、
北条・上田勢を破り、7月19日、権現山城は9日間の激戦の末に落城します。
19日上杉勢がなだれのごとく城内に乱入した時、
城中より「我こそ神奈河の住人間宮の某」と叫びつつ
上杉に突入した勇ましい武士がいました。
その神奈河住民間宮なる人物、
私の実家のあたりに縁のある人物なので
調べた事があります。
磯子区杉田の東漸寺にある「間宮教信覚え書」には
信冬の子信盛が杉田へ移ったとあります。
権現山の合戦の後、杉田に落ちのびたのでしょう。
氏綱の時代に間宮氏の勢力は磯子区域まで延びていきました。