湘南モノレール(州崎古戦場)

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湘南モノレール富士見町駅湘南深沢駅辺り一帯は歴史の宝庫。
昨日、この辺りのやぐら、石仏、石塔やお寺、神社を巡ってきました。
この辺りの歴史は、何百年にも渡っていて多くの逸話があるので2回に分けて書きたいと思います。
今日は、新田義貞の鎌倉攻めの激戦地である州崎古戦場のお話です。

大船駅からモノレールに乗って湘南町屋駅で降ります。
モノレールの線路を見上げながら坂を登りきり少し下った道路端に州崎古戦場跡の碑がありました。
周りに彼岸花が咲いています。
まだつぼみのものが多くあと数日後で彼岸花に囲まれるでしょう。

1333年5月16日、多摩川分倍河原の戦に敗れた北条軍は一気に退いて
富士見町駅湘南町屋駅の間にある山崎の天神山(北野神社)や富士塚の山の南から
深沢や笛田の山並みにかけての一帯に鎌倉防衛の陣を構築します。
その軍勢約6万。
これを追ってきた新田軍は、5月17日には藤沢まで進出。
ここで10万の軍勢を三手に分けて鎌倉攻撃の布陣を敷きます。
中央軍は、新田義貞の弟、脇屋義助を将として深沢へ
右翼軍は、大館宗氏を将として極楽寺口へ
左翼軍は、堀口貞光を将として山崎へ向います。
5月18日未明、新田軍は村岡・柄沢の丘から柏尾川低地に撃ってでます。
州崎前面に攻め込んだのは堀口貞光の左翼軍。
ここを守る北条軍の将は、赤橋守時
一昼夜で六十五度に及ぶ激突で、この地は両軍の人馬の血で染まったといいます。
やがて北条軍が劣勢になると新田の陣から守時に対し助命を条件に降伏するよう軍師がやって来ます。
実は、赤橋守時足利尊氏の妻の兄。新田義貞としても助命したい人物。
これに対し守時は、「我、足利殿の縁につながる故、相模入道殿をはじめ
一門の皆々疑いの念を秘めている。我、もしもここを敗れて退いたならば、
あれ見よ、相模守守時は敵に内通してわざと退いたと申されん。
これ勇士の恥づる所ぞ。ここに果つるほかあらじ。」と言い鎧を脱ぎ捨て腹をかっさばいて倒れます。
守時の死によって北条軍は総崩れ。
山ノ内や葛原ガ岡方面に退いて行きました。
新田軍はこれを追って19日からは、葛原ガ岡での激突になります。

写真1枚目)州崎古戦場の碑の前から撮影。
写真2枚目)かって北条軍が防衛の陣を敷いた富士塚から深沢辺り。