江ノ電 稲瀬川畔

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新田義貞の鎌倉攻めの時、
1333年5月18日、
中央軍が州崎の戦をしている時、
右翼軍を率いた新田軍の将・大館宗氏は、
七里ガ浜を突進して極楽寺坂、
霊山の北条軍に相対します。

その夜、
宗氏は自ら十一人の突撃隊を組織しました。
北条陣営の後方撹乱を考えたのです。

 

突撃隊は、稲村ヶ崎と霊山の間の崖道
(その辺りに切り通しが出来る以前の
古道が通っていました)を
よじ登り霊山ヶ崎に下りて、
水際を長谷の稲瀬川のほとりに出ます。
そして前浜の在家などに火を放ちました。

 

慌てた北条軍。
諏訪・長崎らの輩は、身命を賭して防戦するも
不意をつかれて苦戦します。
19日の早暁、北条方の豪傑、
本間山城左ェ門が決死隊を編成し、
それを率いて反撃開始!!
宗氏ら十一人を稲瀬川畔に追い詰めて
全員を討ち取ります。

大将を失った新田軍、
その日のうちに片瀬まで
押し返されてしまいました。

 

稲村ヶ崎1丁目にある十一人塚には、
大館宗氏の主従十一人の遺髪が
義貞の手によって葬られています。
義貞は、戦が終わった後、
ここに十一面観音堂を建てたとされていますが、
今は、石塔のみが残っていました。