
横浜市磯子区の
森浅間神社の急な石段の南参道
別名「潮汲坂」の中程にある
「平和の礎」脇から
屛風浦(森3丁目、6丁目)を見ての
撮影です。
撮影の合間に
「平和の礎」に彫られている
文章を読んでみた。
宣戦布告無き戦争を
正当化する為に使った
「支那事変」とか
日本の侵略戦争であることを
覆い隠すことになるので
教科書にも載せられない
「大東亜戦争」という言葉が
読み始めて早々、現れたので
これヤバいやつ?と思いながら
読み進めていきます。
すると
「わが日の本は国の威信と国益をかけて
大きな戦に突入した」とか
「勇戦奮闘の結果、終戦を迎えた」とか
「祖国の悠久を信じ散った命が
今日の平和と繁栄の礎となった」とか
あの戦争を賛美するような言葉が刻まれてる。
最後の結びの言葉は、
「この功績を永く後世に伝えるため
この碑を建立する。」だって
森浅間神社は、海を一望でき
房総半島へ渡る海路の戦略上の要所でもあり
鎌倉幕府の陣所(陣屋、陣営)が設けられた
「我沙羅山」山頂に源頼朝の請願により
1197年、富士山浅間大社から
此花咲耶姫命の分霊を勧進し創建されます。
鎌倉扇ヶ谷にあった
亀谷山権現堂福禅寺の法灯を継ぐ歴代住職は、
この地に赴き各種祈願をなしたのだそうです。
鎌倉幕府最後(9代目)の将軍、
(もちろんお飾り将軍)の守邦親王は、
1333年、新田義貞勢に攻められた折、
権現堂福禅寺の長円を伴い鎌倉を脱し
薬師仏像と共にここ森村に移りました。
その薬師仏は、1335年5月28日、
森浅間神社の本地仏として安置され
森浅間神社の御神体となっています。
私が子供の頃は、
浮浪者による火災で神殿がなく
狛犬と鳥居が、
神奈川県の天然記念物に指定されている
常緑広葉樹林(主にスダジイ)の中に
取り残されたかのようにありましたが、
今は、立派な本殿が建立されています。
『屏風浦物語』
(屏風浦小学校・創立50周年記念出版)によると
「森の海岸から四、五百メートルの沖に
円筒形の石がたくさんあったそうで
これを村の人々は「旗立石」とよんでいました。
その旗立石とは、
北条氏綱(北条早雲の嫡男)の時代、
里見軍が東京湾を渡り攻めて来た時に
足軽の数が多いと見せかける為
白旗を差し込んで立てた土台の石
その実物がここ森浅間神社にあるそうです。
実は屏風浦小学校内にある歴史資料室にも
旗立石が残されているというので
見学させてもらえないかと
小学校に問い合わせたところ
今年3月に歴史資料室は閉室され
旗立石の保存先は調べてみないと分からず
見学できるか否かも分からないとの事でした。
(残念)