江ノ電355 満福寺

歌舞伎で演じられる判官義経のおかげで
義経に親しみを持ち
義経は、平家追討で活躍したのに
兄頼朝の義経の人気への「嫉妬」にあって
惨い仕打ちを受けた。

義経は、悲劇のヒーローだ
なんていう人もいるらしい。

ここ義経ゆかりの寺、満福寺も
世情に疎いおバカな義経
悲劇のヒーローのように扱っているお寺

義経は、
なぜ鎌倉入りさせてもらえなかったのか

今日は、それについてのお話です。

頼朝は、後白河法皇院宣によって
木曽義仲の追討、
次いで平家討伐の戦をする事になり
二軍を編成したのだけど、
それらの戦の総指揮官になったのが、
範頼と義経

義経は、まず木曽義仲を攻め、
みごと討ち取ります。
続いて西の福原まで退いていた
平家を討つ準備を京都でしていた義経
後白河法皇は、
左衛門尉・検非違使に任官します。

しかし、
これには大きな罠が仕組まれていました。
 
頼朝は、平家を討った後は貴族政治を廃して
鎌倉に幕府を作ろうと考えていたから
将兵への恩賞は、
鎌倉からの上申によって行なう事、
直接の賞与は、
禁ずると申し入れていたのに
義経は、鎌倉のこの行政改革を無視して
喜んでこの任官を受けちゃった。
すると義経周辺の武将まで、
我も我もと院の賞与を望んで、
二十余人が院から賞を受け取る始末。

もちろん頼朝は、怒り心頭。
でもね、とりあえず平家を倒すまでは
波風立てずに我慢我慢。
平家を倒さなきゃ、
鎌倉に幕府を開くということさえ
出来ないんだから
処罰は、あとで・・・。
 
1185年3月末、ついに平家滅亡!!
京に凱旋した義経は、
後白河法皇に大歓迎されてますます有頂天。
またまた院から恩賞なんかを貰っちゃいます。
 
頼朝は、あの手この手で
貴族による院政を存続させようと画策する
後白河法皇の意を読み取っていたから
将兵に対して、
法皇から恩賞を受け取った者は、
関東への帰還を禁止する。
もし、美濃の墨俣を越えたものは、
所領没収、
本人は斬首という命令を出します。

武士への恩賞を誰が出すかが
国造りの基盤ですから
頼朝もここは譲れませんよね。
 
 
義経は、申し開きをしようと
捕虜の平宗盛を伴って
禁足を無視して鎌倉に向かいます。

鎌倉では、急遽、北条時政が出向き
酒匂で平宗盛を受け取って
義経を足止めします。
 
義経は、
兄と話せば分かってもらえるなんて思って
さらに鎌倉に進み
七里ヶ浜の行合川まで来たところで
再び押しとめられ
当時、鎌倉の外とされていた
腰越に戻されます。

そして満福寺に入り和田義盛
仲介を頼んだり、
腰越状を送ったりして許しを待つのですね。
 
まだ義経は、
兄の怒りは梶原景時の言葉を真に受けた
頼朝個人の感情と思っていました。
木曽義仲、平家討伐で、梶原景時は、
義経軍の軍監で、
義経とよく衝突していました。)
 
鎌倉に幕府を開いて
新しい政治を行なうという
頼朝や側近である
大江広元北条時政梶原景時らの
行政府の意思であることに
最後まで気付かずにいたようです。
 
ここ満福寺で書かれた腰越状
頼朝に渡してほしいと腰越状を託した
政所長官・大江広元が握りつぶして
頼朝には見せていません。

義経を許せば、
鎌倉の意図する国造りは
崩壊すると思ったからでしょう。
当然ですね。
 
そして6月9日、
身の危険を感じた義経は、
満福寺をひそかに出発し
京に向かっています。