長々と記事にいたしましょう。
先は長いぞ、心して読んでね。(笑)
次いで平家討伐の戦をする事になり二軍を編成したのだけど、
頼朝は、平家を討った後は貴族政治を廃して
鎌倉に幕府を作ろうと考えていたから
将兵への恩賞は、鎌倉からの上申によって行なう事、
直接の賞与は、禁ずると申し入れていたのに
義経は、鎌倉のこの行政改革を無視して喜んでこの任官を受けちゃった。
すると義経周辺の武将まで、我も我もと院の賞与を望んで、
将兵への恩賞は、鎌倉からの上申によって行なう事、
直接の賞与は、禁ずると申し入れていたのに
義経は、鎌倉のこの行政改革を無視して喜んでこの任官を受けちゃった。
すると義経周辺の武将まで、我も我もと院の賞与を望んで、
二十余人が院から賞を受け取る始末。
もちろん頼朝は、怒り心頭。
でもね、とりあえず平家を倒すまでは波風立てずに我慢我慢。
平家を倒さなきゃ、鎌倉に幕府を開くということさえ出来ないんだから
もちろん頼朝は、怒り心頭。
でもね、とりあえず平家を倒すまでは波風立てずに我慢我慢。
平家を倒さなきゃ、鎌倉に幕府を開くということさえ出来ないんだから
処罰は、あとで・・・。
頼朝は、あの手この手で貴族による院政を存続させようと画策する
関東への帰還を禁止する。
もし、美濃の墨俣を越えたものは、
もし、美濃の墨俣を越えたものは、
所領没収、本人は斬首」という命令を出します。
武士への恩賞を誰が出すかが国造りの基盤ですから
武士への恩賞を誰が出すかが国造りの基盤ですから
頼朝もここは譲れませんよね。
義経は、申し開きをしようと
当時、鎌倉の外とされていた腰越に戻されます。
そして満福寺に入り和田義盛に仲介を頼んだり、
そして満福寺に入り和田義盛に仲介を頼んだり、
腰越状を送ったりして許しを待つのですね。
まだ義経は、兄の怒りは
行政府の意思であることに
最後まで気付かずにいたようです。
最後まで気付かずにいたようです。
ここで書かれた腰越状、
頼朝に渡してほしいと腰越状を託した
政所長官・大江広元が握りつぶして
そして6月9日、
身の危険を感じた義経は、満福寺をひそかに出発し京に向かっています。
身の危険を感じた義経は、満福寺をひそかに出発し京に向かっています。
最後まで読んでくれた方、有り難うございました~。