江ノ電 6月の満福寺

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後白河法皇にいいように利用され
左衛門尉・検非遺使に任官という恩賞を喜んで受け取り
丁寧な賞詞を与えられて有頂天になった
世情に疎い馬鹿な義経
 
彼が、ここ満福寺に滞在したのが、
1185年のちょうど今頃。
 
貴族政治を廃して「武士の世」を造るため
恩賞は、鎌倉からの上申によって行うこと。
法皇から恩賞を貰った者は、
関東への帰郷を禁ずる。
もし美濃の墨俣を越えたものは、
所領没収、本人は斬首と命令を出していたのに
義経は、申し開きをしようと考えて
捕虜の平宗盛を伴って鎌倉に向かいます。
 
鎌倉では、急いで北条時政が出向いて
酒勾の宿で宗盛を受け取って
義経を足止めするけれど
義経は、禁足を無視して鎌倉入りを目指します。
 
 
合川まで来たところで
再び押しとめられて
腰越に戻り
満福寺に入ったのが5月15日。
 
ここに来ても
政治的な才覚に疎い義経は、
自分への仕打ちは、梶原景時の謗りが原因だと思っていて
頼朝と大江広元北条時政梶原景時ら行政スタッフの真意を理解していない。
 
義経は、満f福寺での滞在中、
ひたすら兄頼朝の怒りを解くことばかり考えて
和田義盛に仲介を頼んでみたり
世に腰越状と称する手紙を書いて頼朝に送ったり・・・・。
 
この腰越状
大江広元が握りつぶして頼朝は、見ていません。
 
政所長官の広元、
平家の時代の朝廷との関係を踏襲するような義経を許せば
鎌倉で幕府を開いて
武士による新政府をつくるという意図が
崩壊すると思っていたからね。
 
ごもっとも!!
 
義経、腰越で粘ります。
 
その現状に業を煮やして
とうとう義経に討手を差し向けることが決定!!
 
身の危険を感じた義経
 
6月9日に
諦めてひそかに満福寺を出立。
 
京に向います。