多くの伝説や歴史の宝庫である腰越。
知られている史跡の一つが、
鎌倉時代に龍口を中心として
腰越にあった刑場跡でしょう
それにしても頼朝は、
なぜ龍口を処刑場の地に選んだのでしょうか。
鎌倉の外に処刑場を造りたかったのなら
頼朝が鎌倉入りした当時から
鎌倉時代中期まで、
鎌倉とその外の境界とされていた
稲瀬川の西側だったら
どこでもよかったのに・・・
これには、密教の「七里結界」というものが
関係していたようです。
「七里結界」とは、魔障の侵入を防ぐ為、
七里四方に境界を設けること
頼朝の屋敷を起点にすると
裏鬼門(南西)の七里が腰越にあたります。
つまり腰越までは、頼朝の精神的な結界内。
それで、その外側に位置する
龍口を処刑場に選んだようです。
ひと山越えれば鎌倉に位置しています。
そこに「野七里」という場所があるのだけど
その場所は、
頼朝の家から鬼門にあたる
北東に七里離れた地。
腰越につながる浜に残る
七里ヶ浜という名(浜七里)
私が住む区に残る野七里という名
どちらも「七里結界」に関係していたのかと思うと面白い。
ちなみに鎌倉時代の一里は、6町です。