江ノ電 阿仏尼の紫陽花

毎年、ここでこの紫陽花を見る度
我が子の為の
忍耐強い愛情と
紫陽花の花言葉の一つ
「忍耐強い愛」とが重なります。

ここは、十六夜日記の作者
阿仏尼が鎌倉に来て
最初に居を構えた場所の近く。

このブログ記事を書くにあたり
十六夜日記を読み直してみたけれど
高校生の時には何も感じなかった
阿仏尼の思いに
今になって感慨無量になった。


阿仏尼は、
平安時代以来の歌学の宗家である
藤原定家の子、為家の後妻。
 
為相の母親です。
 
為家の采地は、播州の細川領と江州の小野庄。
 
為家は、先妻との間の子である為氏が
親不孝な事をしでかしたので
いったん与えた細川庄を取り上げて
後妻である阿仏尼の子、
為相に与えると遺言状を書いていました。
 
為家が、生きてるうちに
為氏から領地を取り上げておけばいいものを
めんどくさくなりそうな事は
自分が死んだ後で
どうにかしてというスタンス。
死ぬまでほったらかしにしていたから
ややこしくなっちゃった。
 
為家が死んでも為氏は、
細川庄を義理の弟の為相に譲らない。
 
それで腹のたった阿仏尼、
当時4歳の為相を残して
幕府に訴訟する為に
1277年10月16日に京都を旅立ちます。
 
鎌倉までのその旅日記が、
あの「十六夜日記」。
 
阿仏尼は、訴訟の判決を待って
月影が谷(この写真の場所の近く)に
庵を造って住みました。
 
しかし運の悪いことに
この時は、元寇の不安の真っ最中。
 
忙しくてこんな揉め事、後回しと
訴訟は、放置されて
裁判の埒の明かないうちに
1283年、阿仏尼は、
鎌倉の地で亡くなってしまいます。
 
6年近くの間、
鎌倉の地で悶々として過ごしたんだろうな。
 
結局、この訴訟は、阿仏尼の死後に勝訴!!
 
阿仏尼の子、為相は、
細川庄を手にすることが出来ました。
(メデタシメデタシ)
 
その為相、
後に兄から分家して
あの冷泉家をおこしています。