悲劇のヒーローのように扱う擁護には、
ちょっと辟易としてしまいます。
頼朝は、
次いで平家討伐の戦をする事になり
二軍を編成したのだけど、
それらの戦の総指揮官になったのが、
みごと討ち取ります。
続いて西の福原まで退いていた
しかし、
これには大きな罠が仕組まれていました。
頼朝は、平家を討った後は貴族政治を廃して
鎌倉に幕府を作ろうと考えていたから
将兵への恩賞は、
鎌倉からの上申によって行なう事、
直接の賞与は、
禁ずると申し入れていたのに
義経は、鎌倉のこの行政改革を無視して
喜んでこの任官を受けちゃった。
すると義経周辺の武将まで、
我も我もと院の賞与を望んで、
二十余人が院から賞を受け取る始末。
もちろん頼朝は、怒り心頭。
でもね、とりあえず平家を倒すまでは
波風立てずに我慢我慢。
平家を倒さなきゃ、
鎌倉に幕府を開くということさえ
出来ないんだから
処罰は、あとで・・・。
1185年3月末、ついに平家滅亡!!
京に凱旋した義経は、
後白河法皇に大歓迎されてますます有頂天。
またまた院から恩賞なんかを貰っちゃいます。
頼朝は、あの手この手で
関東への帰還を禁止する。
もし、美濃の墨俣を越えたものは、
所領没収、
本人は斬首という命令を出します。
武士への恩賞を誰が出すかが
国造りの基盤ですから
頼朝もここは譲れませんよね。
禁足を無視して鎌倉に向かいます。
鎌倉では、急遽、北条時政が出向き
義経は、兄と話せば分かってもらえるなんて思って
さらに鎌倉に進み
当時、鎌倉の外とされていた
仲介を頼んだり、
鎌倉に幕府を開いて
新しい政治を行なうという
頼朝や側近である
行政府の意思であることに
最後まで気付かずにいたようです。
鎌倉の意図する国造りは
崩壊すると思ったからでしょう。
当然ですね。
満福寺をひそかに出発し
京に向かっています。