常立寺

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常立寺、

湘南モノレールの湘南江ノ島駅ホームから見えるあのお寺です。
このお寺、今は日蓮宗のお寺ですが、

もとは真言宗のお寺で

回向山・利生寺といいました。

なぜ真言宗だったかというと

このお寺、近くの龍の口の刑場で処刑された
刑死者を弔う為に出来たお寺なんです。
それが、室町時代の永正の頃(1504年~)

日豪上人の法話を聞いた利生寺の住僧や担那達が
日蓮宗に帰依してこの寺を日蓮宗の常立寺と改めます。
湘南江の島駅前を通る江の島道から参道を抜け

四脚門をくぐると右手に六道地蔵がお出迎え。


左手には、大きな題目碑があります。
これを誰姿(たすがた)の森、又は元使五人塚といい

五つの五輪塔が寄り添うように並んでいます。
蒙古の国使・杜世忠達の墓です。

杜世忠らが日本に来たいきさつをちょっと書いてみます。


1274年10月、

蒙古王フビライは三万三千の兵をもって

南宋の軍船で対馬壱岐を襲い
19日には博多湾に上陸します。
迎撃した筑前筑後守護職武藤資能をはじめ、

豊後の大友、肥後の菊池・竹崎、
肥前の白石氏らは軍兵を率いて必死の防戦。
しかし蒙古軍は鉄砲

(今日の鉄砲とは違っていて、

爆弾か手榴弾のようなもので、炸裂火器の一種)

毒矢、石弓(投石器)、

長槍など日本になかった兵器を持ち

集団戦法をもって攻めてきたので
日本軍は太刀打ちできずに敗走します。
夕方には大宰府辺りまで攻め込まれますが、

日暮れと共に元軍は軍船に引き上げました。
その夜です。暴風がおこり多くの軍船が難破、

一万余りの蒙古軍兵士が水死してしまいます。
そして蒙古軍は引き上げていきました。
実は鎌倉幕府は、蒙古の襲来を予期していました。
しかしその戦力の大きさまでは把握していなかったようです。
幕府は、改めて元軍再来を恐れてその対策に腐心していました。
そんな時、1275年4月、蒙古の国使、杜世忠ら五人が

長門国山口県室津にやって来ます。
そして9月には鎌倉に入り降伏せよと迫ります。
執権北条時宗は、この使者五人を捕らえ9月7日に龍の口刑場で斬ります。
その死骸は、この利生寺(常立寺)に埋葬されここにある五輪塔ができました。
五輪塔には、元の青い布が着けられていました。
青は、モンゴルでは英雄の色だそうです。