う2089レを撮影した後、
反町公園から近いJR線のガードをくぐって
すぐの場所にある慶運寺に行ってみます。
この慶運寺、横浜開港当時は、フランス領事館として使われたお寺。
この辺りは、開港当時の各国の領事館に使われたお寺が点在しているんです。
慶運寺の開山は室町時代、
芝増上寺第三世定連社音誉聖観によります。
諸堂は戦災で焼失してしまい
写真の本堂は戦後に再建されたもの
慶運寺の別名は、「浦島寺」と言います。
慶運寺の別名は、「浦島寺」と言います。
本来浦島伝説は浦島ヶ丘にあった観福寿寺の縁起書に由来するものでした。
その観福寿寺は1868年(慶応4年)の大火によって焼失、
さらに明治の廃仏毀釈によって廃寺となりましたが、
本尊であった浦島観世音菩薩も慶運寺に移されたことで、
浦島太郎の父である浦島太夫は相州(現在の神奈川県に相当)三浦の人でした。
公務のために丹後(現在の京都府北部あたり)に赴いていた時に子の太郎が生まれます。
公務で京都まで行っちゃうんだから
相当、身分の高い人だったんだろうな。
太郎が二十歳余りの頃のある日、
浜で子どもたちにいじめられていた亀を助けます。
そのお礼にと、亀は太郎を竜宮へ連れてゆきます。
竜宮で乙姫から私など一生経験できないような
もてなしを受けウハウハの日々を過ごした太郎、
それに飽きたのか三年後に故郷へ戻ります。
この時、乙姫は太郎に土産として玉手箱と観世音菩薩像を渡しました。
当時、玉手箱とは女性の大切な身の回りのものを入れる箱で
その箱を手渡すというのは、私のもとに戻ってきてねと
太郎を縛り付けておく意味合いもあったかも・・・。
しかし久しぶりの故郷の風景は変わり果て、
どこへ行っても‘異次元’の人々が行き交うばかり。
途方に暮れた太郎は相州に父母を訪ねますが、
すでに亡くなっていることを知るのでした。
そして父母の墓が
ここ神奈川区にあるとつきとめ墓参。
この時代に居てもこの先いいことないなと
神奈川の浜から亀に乗って竜宮に戻り、
再び帰ることはなかったといいます。
異説には太郎はこの地で亡くなったと伝えられ、
太郎が結んだ庵が後の帰国山浦島院観福寿寺であるとも。
しかし大火による観福寿寺の焼失とともに縁起書も失われ、詳細は分かりません。
太郎が竜宮から持ち帰ったという観世音菩薩は慶運寺へ移され、
他の遺物のいくつかは観福寿寺の跡地に移転してきた蓮法寺に残されています。
慶運寺の門前には大きく「浦島寺」と書かれ、
亀を象った手水鉢など、
浦島伝説を今に引き継ぐ寺らしい佇まいを見せますが、
JR線の列車を撮ろうとすると墓地がまともに写ってしまう。
ここでの撮影は、やめようかなと思ったけれど
貨物列車の通過時刻は迫っていたし
この辺りで良さそうな撮影ポイントを見つけられる気もしなかったので
慶運寺境内から‘う5083レ’を撮ることにしました。