8095レ 石川町駅通過 ~イタリア山庭園から俯瞰~

イメージ 1
 
お仕事お休みの日、
最も頻繁に乗り降りする駅が、石川町駅です。
通勤定期の区間内だから交通費が掛からない。
それでもって、根岸線を走る貨物列車撮影を楽しみながら
山手西洋館や中華街などの横浜観光地撮影も兼ねられる。
 
その土地、その土地の歴史や由来、史実などに興味を持っている私
ここ、石川町界隈の史実もいろいろと調べています。
 
今回は、石川町の地名の由来にもなった石川さんのお話。
 
嘉永7年(1854)4月6日(陰暦3月9日)、
幕府と日米和親条約を締結したばかりのペリーは、
この日、士官下士官13人を引き連れて、「民情視察のため」横浜村に上陸します。
 
幕府の役人の案内で、近郊の野毛浦や北方村などを回ったペリーらは、
そのあと横浜村(いまの元町)に戻って石川徳右衛門(第11代)宅を訪問しました。
 
のちに横浜惣年寄となる徳右衛門(1804~1889)は、このとき51歳、
里正(村長)の職でした。
 
今の代官坂にある邸宅の玄関で一行を丁重に出迎えた徳右衛門は、
庭で自慢の松を見せたあと、二間つづきの広い座敷に招じ入れます。
主客のペリーら3人は客間の床の間の前に、
通訳と上官ら5人はその東側から北側に、
そして下士官ら5人は次の間にと案内されます。
 
座敷には、赤い腰掛けが用意されていました。
全員が席についたところで、徳右衛門の妻・かつ、
妹・のぶが茶菓を持って入ってきて、
「おずおずと、つつましく」ご挨拶。
 
二人とも素足で、黒っぽい長衣を着て、腰には幅広の帯を締めています。
「見た目に不格好な衣服をまとった二人は、太ってずんぐりして見えたが、
顔の表情は決して乏しくはなかった。
それは彼女らの黒く輝く瞳と黒髪のせいだった」と
ペリーはその第一印象を記しています。
 
しかし、その時、ペリーの目に何より強く印象に残ったのは、彼女らの「お歯黒」。
「二人とも笑みを浮かべてはいるが、
ルビーのような唇を開くたびに真黒に染めた歯と腐った歯茎が覗き見えた。
それは不気味で、匂いも悪いし、衛生的にも決してよいものではなかった。」
 
そりゃ、見慣れないお歯黒
気味悪くてびっくりしただろうなぁ~
江戸時代を題材としたテレビドラマや映画からも消えて
お歯黒を見なくなった
現代の日本人が見ても異様だもん。
 
とはいいながら、ペリーはこのお歯黒についての正確な認識も持っていたそうです。
「歯を黒く染めるのは既婚者の証拠で、自分にはすでに決まった良人があることを示すものである」。
 
そして、このあと次のように記しています。
 
「果たして(このお歯黒は)二人にとって、
幸せな結果をもたらすものであったかといえば決してそうとはいえない。
二人の接吻は求婚時代で終りを告げてしまうからである。
まして近頃の若い女性の中には、
求婚されるとすぐに未来の花婿のことを思って歯を黒くしてしまうものもいる。
そうなると未来の花婿は、
結婚前にすでに接吻の喜びを奪われてしまうことにもなりかねないのである。」
 
う~ん、たしかにそうだ(笑)
 
それはともかく、肝心な石川家の接待はといえば、
石川家がこの日用意したのは、お茶と砂糖菓子、
それに日本酒と「米粉でつくった温かいワッフルのようなもの」であったそうです。
 
この「ワッフルのようなもの」が何であったか。
日本側の資料によると、それは「焼餅」だったらしい。
 
宴が始まると、女性たちは跪き、
かいがいしくお酌をしてまわります。
 
ペリーは、こうした彼女たちの立居振舞を見て
「こんなぎこちない姿勢でも別段動きに支障はないらしい。
盃が小さいから、始終酒を注がなければならないのだが、
二人は銀の徳利を手に活発に動き回った」と記しています。
 
そして、その間「つねに丁重に、絶やすことなく笑みを浮かべていた」が、「笑わない方がよかった」
 
やっぱり、お歯黒が不気味だったんだね。
 
ともかくこうして接待は順調に進み、
最後にペリーが立ち上がって酒杯を高々と差し上げ
「一家全員の健康を祝して乾杯したい」と申し出ると、
そこへ「隣室に控えていた村長の母親(注、きせ)が連れられて入ってきた。
 
この老淑女は、部屋に入ると、一隅に蹲り、
最年長者として一家に寄せられた祝福に感謝してお辞儀をした。
 
こうしてペリーの石川家訪問は無事終ります。
 
ペリーにとってそれは極めて満足のいくものだったようですね。
 
石川さん、お役目成功、
ご苦労様でした~。
 
 
 
 
この日の「日記」の最後に、村(元町)全体の印象をつぎのように記しています。
「この村の住人は役人、商人、労働者の三つの階級があるようだが、
みな打ち揃って満足に気楽に暮らしているようであった」と
 
実際は、この頃
日本の行く末を案じて
バタバタしていた庶民も多かったと思うのだけど・・・