北鎌倉駅と東慶寺

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「駆け込み寺」「縁切り寺」の名で広く知られる東慶寺
でも、縁切寺法が当初の目的の為に活用された時代は、案外短かったって知ってます?

今日は、東慶寺縁切寺法(このお寺に駆け込んだ女性は、3年間尼生活をすれば
寺法離縁状をもらって婚家と離別でき、晴れて再婚も出来ちゃうっていう美味しい仕組み)のお話。

今日のお話は、長いよ~。
何人の人が最後まで読めるかな。
でも最後まで読んだら、現在○○進行中の男女は、この時代に出会いたかったと思うこと間違いないよ。

さて、お話を始めましょう。
1284年に34歳で北条時宗は、死んじゃうのだけど、
それで未亡人になった夫人が、出家して翌年(1285年)、
古寺を臨済宗の尼寺として復興したのが東慶寺の始まり。
尼になった時宗夫人は、ここでひと仕事しようと考えます。

当時は武士の世、男権、親権が強くて女性が婚家で辛い目にあっても女性からは離婚できなかった時代。
夫人(覚山尼)は、夫人の子である執権・貞時に頼んで許しを受けて縁切寺法を定めてもらいます。
なんで、尼がこの法を思いついたんだろう?
実体験からの発想?

1333年、北条氏が滅亡するとこのお寺の後ろ盾もなくなり
世は、戦乱にまっしぐら。
そんなご時世だから法の権威も薄れ寺法も無視されちゃうようになりました。

この寺法が復活したのは、ようやく徳川家光の時代。
豊臣秀頼の娘で、徳川家康の孫千姫の子になった女の子が、
大阪城落城後、家康によって東慶寺に入寺させます。
時に8歳。
その女の子が、後に住職(天秀尼)となって、将軍家光に寺法の復活を願いでるのです。

将軍お声がかりの寺法。
もうこれは、絶大な権威をもった法だよね。
江戸や近在の不幸な女性の為におおいに役立ったそうです。

ところがところが、江戸中期になると
夫や姑とのちょっとしたいさかいでも駆け込む女性が多くなり
お寺では、収容しきれなくなってしまいます。

それで、3年の期間を2年と1日、3年目に離縁状を与えて寺を出すように法を変え、
さらには、髪を切らなくてもいいことにします。
要するに回転率を上げるっていうことですね。(笑)

世は、太平。
そんな世になると法を悪用する女性が急増!!

不貞な女性が夫を捨てるために東慶寺を利用するようになってきます。
女性を救うはずの縁切寺法が、不倫の手助け?

この頃流行った川柳の一部をご紹介。

「間男を連れて相模に逃げて行き」

「三年のうちに間男気が変わり」

江戸後期になるとますます寺法を悪用し駆け込む女性も増えて
さすがにまずいと思った東慶寺
寺法のやり方を変えてます。
それで少しは不倫中の女性が入寺出来ない様になったそうですけど。
これが、‘門前払い’の言葉の由来???