1592年2月の寒い日、信永という旅の僧が、公田村の鎌倉道を歩いていた時の事、
「旅のお坊様、こちらにいらして下さい」と女の人の声を聞きます。
辺りに人の姿はなく不思議に思いながら声のした方へ歩いていくと
登りつめた丘の上に崩れかけた塚が三つひっそりと並んでいました。
信永は、経を唱えます。
その経が終わると先程の声がまた聞こえました。
「有り難うございます。真ん中の塚が、我が主の照玉姫さまでございます。
お寂しいと思い、お頼みもうしました。」
「旅のお坊様、こちらにいらして下さい」と女の人の声を聞きます。
辺りに人の姿はなく不思議に思いながら声のした方へ歩いていくと
登りつめた丘の上に崩れかけた塚が三つひっそりと並んでいました。
信永は、経を唱えます。
その経が終わると先程の声がまた聞こえました。
「有り難うございます。真ん中の塚が、我が主の照玉姫さまでございます。
お寂しいと思い、お頼みもうしました。」
照玉姫というのは、平安時代の桓武天皇の皇子、葛原親王の妃。
争いが絶えず身の危険が迫る当時の朝廷から逃れる為、
皇子は、照玉姫や数人の家来と共に旅に出ます。
ところが、照玉姫は無理な旅がたたって体を壊し公田の里に留まる事になりました。
824年、照玉姫は、亡くなります。
そして、侍女の相模の局と大和の局も後を追うように亡くなり
二人の塚は、照玉姫の塚を守るように挟んで築かれました。
信永を呼んだのは、この侍女のうちの一人でしょう。
争いが絶えず身の危険が迫る当時の朝廷から逃れる為、
皇子は、照玉姫や数人の家来と共に旅に出ます。
ところが、照玉姫は無理な旅がたたって体を壊し公田の里に留まる事になりました。
824年、照玉姫は、亡くなります。
そして、侍女の相模の局と大和の局も後を追うように亡くなり
二人の塚は、照玉姫の塚を守るように挟んで築かれました。
信永を呼んだのは、この侍女のうちの一人でしょう。
信永は、塚のそばに小さな社を建てました。
それが、皇女御前社の前身です。
それが、皇女御前社の前身です。