横浜線(小机城址)

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すがすがしい秋空の下、鴨居から小机城址に向け鶴見川の土手をお散歩していると
鶴見川とその支流、宮下川の合流地点辺りに
小机城址のある山を入れて横浜線を走る205系を撮るのにもってこいのポイントを発見!!
線路端に近寄ると「鉄道横死諸霊供養塔 昭和17年9月27日建之 小机町第一 第二隣組
なるものがありました。
その供養塔に向って「おじゃまします」と呟いて線路に向けてカメラをセットします。
でもなんとなく気になって電車が来るのを待つ間、供養塔に向って黙祷します。
帰宅後、この供養塔の事をインターネットで調べてみたのですが残念ながら分かりませんでした。

 

さていよいよ小机城址の山を登ります。
今回は、二度目の訪問。
前回来た時は、勉強不足で見落としたものがあって、それを確認する為にやって来ました。
横浜市内に郭、土塁、空堀が残るこれほどの中世城郭の遺構が残されているのはすごいことです。
お約束通りちょっとだけ小机城の事を紹介します。

 

1476年、関東管領山ノ内上杉家の家宰であった長尾氏の家督相続争い(景春と忠景の争い)が発端となり
4年間にわたって関東一円を巻き込む戦乱(長尾景春の乱)が起こりました。
この時、小机城には、景春方に与した小机弾正左衛門昌安とともに
太田道灌の攻めによって武蔵平塚城から逃れてきた武蔵の雄族、豊島泰経一族らが篭城します。
関東管領扇谷上杉家の家宰である太田道灌は、小机城の北方の亀甲山(港北区新羽町)に対陣し
長期戦の為の城を築きます。
攻防戦は、翌年2月から本格化し2ヵ月後には道灌側の勝利に終わり小机城は落城しました。
この時、道灌は「小机は、まず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりになる」と詠んで
自軍の兵の士気を高めたといいます。
戦国時代になると小机城は、北条早雲の領有するところとなります。
北条氏綱の代には、武蔵南部の中心拠点として城代に伊豆21家の筆頭格である笠原信為を置き
現在の城郭跡に見られるような大規模な改修がはかられました。
笠原信為は、鶴見川流域の在地武士を‘小机衆(29人)’として組織しています。
豊臣秀吉小田原城を攻めた時には、小机城は笠原昭重が守備していました。
しかし、豊臣軍の攻撃を受ける前に北条が降伏したので小机城は無傷のままだったそうです。
徳川家康が関東に入ると笠原昭重は旗本となり小机城は廃城となります。