やっと晴れ間が見られた昨日、ようやく横浜の風景を撮り入れた鉄道の写真が撮れると
心まで晴れやかに出掛けました。
向かった先は、京急富岡。
ここの山の上から東京湾まで入れて京急1000形を撮りたかった。
駅を降りてひたすら山を登る。
山といっても今では京急が開発した60坪近い邸宅が美しく建ち並ぶ分譲地だ。
もともと頭の中に地図を描くことが出来、道に迷う事などない私だが
分譲地の中では、方向を見失う。
1時間以上彷徨って辿り着いた先は、出発点の京急富岡駅。
富岡の山の上をぐるりと一周してしまった様だ。
結局、一枚も写真を残せず、今度は、線路の海側の山に登る。
そこから見た富岡の風景がこれらの写真。
心まで晴れやかに出掛けました。
向かった先は、京急富岡。
ここの山の上から東京湾まで入れて京急1000形を撮りたかった。
駅を降りてひたすら山を登る。
山といっても今では京急が開発した60坪近い邸宅が美しく建ち並ぶ分譲地だ。
もともと頭の中に地図を描くことが出来、道に迷う事などない私だが
分譲地の中では、方向を見失う。
1時間以上彷徨って辿り着いた先は、出発点の京急富岡駅。
富岡の山の上をぐるりと一周してしまった様だ。
結局、一枚も写真を残せず、今度は、線路の海側の山に登る。
そこから見た富岡の風景がこれらの写真。
京急富岡駅は、1932年夏に「富岡海水浴場臨時駅」として開設。
その後、地元の有力者、鹿島源左衛門が湘南電気鉄道と交渉し「湘南富岡」として開業にこぎつける。
富岡や谷津坂(現能見台)辺りは、戦前、軍港横須賀に近い事から大日本兵器(株)をはじめとする
軍需工場が多く出来、その工場に通う人達により乗降客が増えていった。
しかし、1945年6月10日、その兵器工場を狙い米軍機が空襲を行う。
空襲警報と共に折り悪く停車していた上下二本の電車の乗客は、駅下のガードトンネルに避難。
電車は、トンネル内に退避した。
残念ながらガード内に避難した人々全員が空襲の犠牲となり
富岡駅及び附近の家屋71戸も全壊全焼している。
戦後、海軍横浜空挺隊跡地にアメリカ軍が駐留することになり
1945年10月1日にアメリカ軍の要請により3枚目の写真に写っているトンネルの向こう側、
現富岡駅より約900m杉田寄りの鳥見塚バス停附近に富岡駅は、移設。
1951年9月、占領解除を受けて再びもとの場所に復帰している。
その後、地元の有力者、鹿島源左衛門が湘南電気鉄道と交渉し「湘南富岡」として開業にこぎつける。
富岡や谷津坂(現能見台)辺りは、戦前、軍港横須賀に近い事から大日本兵器(株)をはじめとする
軍需工場が多く出来、その工場に通う人達により乗降客が増えていった。
しかし、1945年6月10日、その兵器工場を狙い米軍機が空襲を行う。
空襲警報と共に折り悪く停車していた上下二本の電車の乗客は、駅下のガードトンネルに避難。
電車は、トンネル内に退避した。
残念ながらガード内に避難した人々全員が空襲の犠牲となり
富岡駅及び附近の家屋71戸も全壊全焼している。
戦後、海軍横浜空挺隊跡地にアメリカ軍が駐留することになり
1945年10月1日にアメリカ軍の要請により3枚目の写真に写っているトンネルの向こう側、
現富岡駅より約900m杉田寄りの鳥見塚バス停附近に富岡駅は、移設。
1951年9月、占領解除を受けて再びもとの場所に復帰している。