東海道本線 藤沢

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藤沢は、1941年5月まで鎌倉郡に属していた事からもわかるように鎌倉との結びつきが多い土地でした。
923年~31年、藤沢、村岡地区に荘園を開いた村岡五郎平良文は、940年に平将門を討ち
後に良文とその子 忠光、忠頼らとその子孫は、千葉氏、上総氏、三浦氏、土肥氏、畠山氏、大庭氏、
梶原氏、長尾氏となり鎌倉幕府成立に大きな役割を果たしています。
また、境川近くの義経ゆかりの神社、白旗神社の近くには、義経首洗いの井戸があり
首実検の後、腰越の浜に捨てられたという義経の首が潮に乗って境川を遡り
ここの井戸で洗い清められたとか、腰越での首実検に備えてここで洗われたとも伝えられています。
藤沢が本格的に開けたのは、鎌倉時代末の1325年に遊行四代呑海上人が時宗の総本山遊行寺を開き
その門前町として栄えた頃からです。
その後、1601年には街道整備の為、伝馬掟朱印状が発せられ藤沢宿が出来上がり
家康専用の藤沢御殿を中心に街が形成されていきました。
藤沢御殿は、1635年に参勤交代が制度化され大名の本陣などが整えられる頃に姿を消しますが
家康、秀忠、家光と三代にわたり利用され続けました。
江戸の世も安定すると従来の遊行寺参りに加え江ノ島詣、大山詣の人達で賑わったそうです。
1枚目)境川を渡る113系 
2枚目)村岡地区を走る113系