JR横須賀線 山ノ内の紅葉

円覚寺建長寺明月院があるここ山ノ内
鎌倉時代は柏尾川とその支流を含む地域、
横浜市の戸塚区や栄区までもが山ノ内荘で
大穀倉地帯でした。

平安時代末期の12世紀前半に
この荘園を開いた首藤義通、俊通の親子は、
荘園領主であると同時に在地武士団の長であり
源義家以来、源氏と深く関係しています。


山内首藤俊通とその子、俊綱は、
保元の乱(1156年)、
平治の乱(1159年)の折、
頼朝の父、源義朝に仕え
戦死してしまいます。

源頼朝が石橋山で挙兵した折は、
俊通の次男である経俊(つねとし)が頭領

主家の乳人を務める源氏譜代の郎党なので
当然、頼朝を援けると思われたのに
頼朝側弱小とみて平家に味方

この為、
後に鎌倉に入府した頼朝は、経通を捕らえ
山ノ内荘を土肥実平(とひさねひら)に預け
後に和田義盛(わだよしもり)に与えます。

しかし石橋山で平氏に与した者たちの
多くが赦されている中
頼朝に向かって矢を射り
頼朝が着用していた鎧の袖を射抜いたことで
処刑される予定だった山内首藤経俊は、
結局、頼朝と乳母兄弟でもあり
先祖の源氏への功労に免じて
処刑を免れました。

それどころか
鎌倉幕府御家人にもなっているんです。

反逆人として処刑されていれば
山ノ内という地名もなかっただろうに
その地名が現在に残るのは
頼朝にとっての
山ノ内首藤家の存在の大きさだと思います。

あくまでも知れば知るほど
なにかとおバカな経俊のおかげじゃなくて
首藤家の力ね。