扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く
鎌倉七切通のひとつで
山ノ内と扇ガ谷を結ぶとともに
亀ヶ谷坂切り通しの入口に建つ岩船地蔵堂
ここは源頼朝の娘大姫の死を悼んだ
北条、三浦、梶原などの多くの御家人が、
野辺送りをした谷で
大姫の守本尊が祀られています。
1182年、
木曽義仲は、平家打倒の軍を進発する時
11歳の嫡男義高を鎌倉に送って
頼朝に他意のないあかしとします。
頼朝は喜び長女の大姫(時に4~5歳)の
許婚として迎えました。
1184年、義仲は、平家を追って京に突入。
後白河法皇を押し込めて
自ら征夷大将軍となってしまいます。
おもしろくない法王は
密使を送って頼朝に義仲追討を命じました。
そして頼朝は12月、
範頼、義経以下大軍を発して義仲を攻めます。
1185年1月20日、
義仲は大津の粟津で敗死。
仇討ちを恐れた頼朝は
義仲の嫡男、義高を殺害するよう命じ
これを漏れ聞いた大姫の女房は大姫に告げ
女装した義高を女房数人が取り囲み
義高は6人の従者とともに
馬に飛び乗り鎌倉を脱出。
頼朝の命を受けた堀藤次親家は、
義高を追って入間川原(現、狭山市入間川)で
義高を見つけ討ち取ります。
その首は、鎌倉に送られ首実検の後、
粟船(大船)の離れ山に葬られました。
幼い大姫はそのことで鬱になり
幾日も嘆き悲しみ食事もとらず
病床に臥し日を追って憔悴していきます。
政子は大姫の回復を願って
寺社詣や義高の盛大な追善供養をしますが
大姫の病状は悪化していくばかり
大姫を後鳥羽天皇に入内させようとする
頼朝の工作も実を結ぶことなく
20歳という若さで薄幸の生涯を終えました。