江ノ電300形単行  陣鐘山と新田義貞の鎌倉攻め

後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞
鎌倉攻めの際、霊仙山で防衛線を敷く
北条軍と睨み合いをしていたのが
この写真の山、陣鐘山です。

そしてこの山に陣を敷いたのが
1333年の今日、5月20日でした。

鎌倉に迫った新田軍は、隊を三つに分け
新田義貞率いる本隊は仮粧坂、
(源氏山公園と鎌倉市扇ガ谷を結ぶ切通し道)
大舘宗氏と江田行義の部隊は極楽寺坂、
堀口貞満、大島守之の部隊が巨福呂坂
北鎌倉駅付近から鶴岡八幡宮裏手を結ぶ道)から
鎌倉入りしようとして幕府軍と戦っていました。

5月18日、
極楽寺坂から鎌倉に侵入した新田軍の部隊が
江ノ電長谷駅近くの稲瀬川付近で
大仏貞直軍の反撃に遭い侍大将大舘宗氏も討死

多数の兵を失った大舘宗氏隊は
腰越・片瀬まで退却。

その知らせを受けた新田義忠、
弟の脇屋義助化粧坂の戦いの指揮を任せ
自身は深沢、津村を抜け腰越経由で
小動神社で戦勝を祈願した後、
七里ガ浜小学校辺り田辺の山道を進み
極楽寺坂に向かいます。

そして極楽寺坂の北西
稲村ガ崎駅からだと
北に1キロほどの場所にあった
聖福寺に本陣を構え
この写真の陣鐘山に兵を配したのでした。

陣鐘山は、
極楽寺駅の海側の
現在は、お墓やマンションなどがある山の
霊仙山に対峙しています。

その霊仙山は、
大仏貞直を将とする北条軍が
山全体を防御陣地にしていました。

新田義貞が陣鐘山から
敵陣の様子を窺うと
霊山や極楽寺坂など
この辺りの山地一帯は
幕府軍により木戸を構えて盾を並べ
強固な陣が敷かれている。

(ちなみに、当時の極楽寺切通しは、
今より勾配がきつくて切通しの高さは
現在の成就院の山門の位置でした。)

霊仙山の海側は海岸の砂浜の幅が狭く
北条軍は、波打ち際まで
逆茂木(さかもぎ)をめぐらしています。
沖には多数の船を浮かべて
新田軍が海岸つたいに進攻しようものなら
矢を射掛けようと待ち構えました。

そのような隙のない北条軍の防御線を
新田義貞は、どのようにして打ち破ったのか

太平記
新田義貞鎌倉中に攻め入る事」の条では、
稲村ガ崎にて馬を降り、甲を脱いで
海上の方を伏せ拝み竜神に向かって祈る

「仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、
臣が忠義に鑑みて汐を万里の外に退け・・・」

そして黄金の太刀を抜き取って
海中に投げるとその夜、汐が沖のほうまで退き
二万余騎一気に駆け抜け
霊山の岬を廻って前浜(由比ガ浜)に突入できた

このような
不思議な現象が起きた物語になっているのは
よく知られているところ

実際には・・・

21日、新田義貞は、陣を敷く
後の世に陣鐘山と名付けられた山から
北条軍の堅固な陣構えを見て
中央突破である極楽寺坂からの侵入を諦めます。

そこで義貞がとった行動とは・・・?

まず、本陣のある
正福寺(稲村ガ崎5丁目付近)の小さな鐘を
北条軍が布陣する
霊山と相対する山(陣鐘山)に担ぎ上げます。

そしてその鐘を
総攻撃の合図のように打ち鳴らしました。

でも実際に攻撃を仕掛けたのは、一部の兵力。

極楽寺切り通しを突破するぞと
北条軍に思わせておいて
実は、潮が引いたタイミングで稲村ガ崎を廻って
鎌倉に侵攻する目論見。
 
北条軍の目を引き付けて
5月21日の深夜2時頃、干潮時間が迫ると
義貞達一行は、岬を目指したのでした。