横浜道

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平沼辺りは、帷子川下流地帯の新田のうち
江戸時代の最後に開かれた埋立地

1858年6月の日米修好通商条約調印によって開国に踏み切った幕府、
神奈川の開港を翌年6月と定めます。

でも横浜の街づくりは、
開港3ヶ月前の3月になって、やっと工事が始まるという状況

当時は、東海道筋から横浜への交通はとっても不便
 
幕府は東海道筋の芝生村(しぼうむら・現浅間町交差点附近)から
横浜(関内)に至る「横浜道」と呼ばれる道路を
とりあえず開くことにします。

当時、東海道と結ぶ道は保土ヶ谷から井土ヶ谷、蒔田を通るか、
神奈川からの舟運しかありませんでしたから

その横浜道は、
湿地帯だった岡野・平沼各新田を経て
戸部村まで一直線に通ずる道で
新田間(あらたま)、平沼(写真附近)、石崎の三つの橋を架け、
併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き
野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けて造ります。

当時の橋の幅は、約6m弱で道路の幅も同等だったとか

橋材は、欄干には杉を
杭には松を使用したそうです。
 
横浜道だった開かずの踏切は、
新横浜通りの平沼橋に
エレベーターが付いたことで
撤去されました。