海自曳舟 YT68

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この写真に写っている

海自の曳船は、YT68

福島第一原発で水素爆発が起きた時に

海上から真水を運んだ船です。

その時の様子が、

朝日新聞の紙面に載っていたので抜粋

 

東日本大震災の発生翌日の

2011年3月12日に

福島第一原発の1号機、

14日に

3号機で水素爆発が起きた。

海水による冷却では

塩の結晶ができるため、

真水を入れた台船を

海上自衛隊横須賀基地

タグボート2隻

(YT79、YT68)が

原発へ運ぶ作戦が

24日、立案された

 

 真水と台船2隻は

米海軍から提供された。

部隊は3月30日に

小名浜港を出発。

翌31日~4月4日、

タグボート

YT79とYT68に分乗し、

原発の港内に台船を

接岸・連結させたり、

真水を補給したりした

 

厚ケ瀬元1曹 

当時、天気は良く、

海は穏やかだった。

YT79を操縦していると、

目張りをした窓の隙間から

白い煙が立ち上る

原子炉建屋が見えてきた。

放射性物質は大丈夫か」と感じた。

 

上原3曹 

私は全長が50メートルほどの

台船上の真ん中にいた。

原発に近づくにつれて

放射線量が高くなり、

前にいる隊員の線量計

「ピーッ」と鳴った。

次に私、そして後ろにいた隊員も。

「タッチ・アンド・ゴー。

1分でも早く

作業を終えなければ」と思った。

 

厚ケ瀬元1曹 

防護マスクをつけていたため、

陸地側にいる東電の人たちと

意思疎通ができない。

ロープをビット

(港に綱をくくりつける柱)

にかけてほしいが、

伝わらない。

最も警戒していた

線量が異常に高くなったら

撤退することになっていたものの、

放射線のことは忘れて

作業にあたっていた。

 

鈴木2曹 

放射線は見えない。

そういう「敵」と戦うのは

大変だった。

 

厚ケ瀬元1曹 

作業が終わった後は

「少しでも早く20キロ圏外へ」という思い。

台船を引っ張っていると

スピードは出ないが、

帰りは11・5ノット

(時速21キロ)の

最大速度で沖へ向かった。

 

上原3曹 

台船を接岸・連結させる

自分たちの作業が

遅くなればなるほど、

危険性が増す。

全員の命を預かる作業は初めてで、

港外へ出た時は力が抜けた。

甲板に座ると、普段は叱られるが、

その時はへたり込んでしまった。

 

防護服と防護マスクをつけたまま

海に落ちれば泳ぐことができず、

汚染水にさらされる任務だった。

米軍から

「真水を入れないと

3日しか持たない」という

情報もきていた一方、

再び原発が爆発する可能性もあった。

その様な中での任務だった。