JR根岸線(横浜公園)

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現在、横浜スタジアムのある横浜公園は、幕末の開港直後、港崎(みよざき)遊郭があった場所です。
1866年、末吉町(現在の太田町)の豚肉料理屋を火元とする大火災(通称 豚屋火事)により
この遊郭をはじめ当時の関内地区の日本人街区の3分の2、外国人居留置の4分の1が消失。
この火災からの復興に際して英国人土木技師プラントンの設計により公園や道路の整備
上下水道の埋設、堀川の拡幅などが行われました。

1~2枚目)1876年に開園した日本初の日本人も利用できる西洋式公園に造られたクリケット場は、
  野球場も兼ねていました。戦後しばらくは、アメリカに接収されていましたが、
  返還後は「平和球場」として親しまれ1978年に横浜スタジアムとして野球や
  アメリカンフットボール等のフィールドスポーツ場として完成しました。
  私が、このスタジアムに最初に足を踏み入れたのはなんとスポーツ観戦ではなく、
  学生の時、アルバイトでサザンオールスターズアトランタリズムセクション他多くのバンドが
  出演した「ジャパンジャム2」のローディーとしてでした。
3枚目)横浜スタジアムが出来る前に横浜公園内に在った教会です。
   横浜公園は、1874年に着工、1876年に開園した西洋式公園です。
   日本初の西洋式公園である「山手公園」が外国人居留者のみに開放された公園だったのに対し
   日本人との共同使用を目的として作られた日本初の西洋式公園はその意味から「彼我公園」と
   呼ばれました。
4枚目)横浜公園から日本大通りを望む。
   「豚屋火事」からの復興の時、外国人居留地から港崎遊郭跡地を公園にする事と
   そこから海岸に向けて防火帯を兼ねた幅120フィートの道路を造る計画が生まれました。
   そして英国人土木技師プラントンが設計したのが、幅60フィートの道路の車道と
   両脇に30フィートずつの歩道、緑地を設けた日本大通です。
   日本大通は、日本初の近代的道路です。